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上園には入れられない

   2016年2月24日  

 気合を入れてホールに戻った速斗は、自分が泣き腫らしていることをすっかり忘れていた。
 速斗と鉢合わせになり、言葉をかけられずにいる花絵。
 速斗の泣いた跡に驚く仁斗。
 仁斗と帰るということで速斗は店内に留まることになった。

 仕事が終わり、マスターの提案で掃除の前に速斗がもう一曲ピアノを弾くことになった。
 その音色は先程とはほんの僅かだが変わっていて、仁斗はマスターに自らの本音をこぼすのだった。

 

 
 気合を入れてホールに戻ると、スタッフの誰よりも仁斗が速斗の顔を見て驚いていた。
 何をそんなに驚いているのかと思ったら、自分が泣きはらしていたことにようやく気が付いて目を泳がせる。
 速斗と花絵は高校生だから20時半で仕事を終わらせる契約になっていて、丁度ホールの入ってきた速斗と顔を合わせる形になった。
 もう帰る時間だとか、はたまたこの状況下でわざとらしく“どうしたの?”なんてことも言えない。
 なんと声をかけていいやらわからず言葉に詰まった花絵は、何も言えずに速斗を見上げることしか出来ずにいる。
「えっと…、もしかしてもうあがる時間かな?」
 今できる精一杯の作り笑顔で、速斗は花絵に問いかけた。
「そ、そうだね。もう帰る時間、かな。」
 速斗の精一杯のそれに、花絵自身も作り笑顔で言葉を返す事しか出来ない。
 無理もない。
 花絵も速斗もまだ高校二年生なのだ。
 こんな時どんな顔をしてなんと声をかければいいかなんて、咄嗟に思いつくほど人生経験を積んでいない。
「速斗はこのまま俺と帰るから、俺の隣に置いてていいっすか?」
 カウンター席に座ってウイスキーを引っ掛けながら、仁斗はカウンター越しにマスターに問う。
 するとアスターはにっこりと微笑んで頷いた。
「そうですね。先ほど坂下君からもお話を伺ってるので、南野君にはこのまま残って頂きましょう。」
 マスターのなんとも言えない微笑も気にはなったが、何より仁斗の気に触れたのはカウンター越しに笑顔で接客する飛由の横顔だった。
 ──こいつの差し金か。
 外見はほんわかしていて少し抜けた天然の雰囲気を醸している飛由だが、その内面は複雑怪奇である。
 おそらくさっき速斗に何か話していて、これから先に起こることの二手三手先を読んでいるのもなんとなくわかる。
 ──見た目で騙されるんだよなー、坂下家の人間には。
 飛由もその兄弟も、外見で人格を想像するとイタイ目に合う。
 それは仁斗自身、身をもって経験済みである。
 ──さあ何を仕掛けてんのか。楽しみにさせて頂こうかね、サカシタクン。
 半ば飛由を睨むように見つめる仁斗。
 そんな彼と目が合い、飛由はにっこりと含み笑いを仁斗に返したのだった。

 営業時間は滞りなく、忙しく過ぎていく。
 花絵はそのまま帰宅し、仁斗に手招きされて着替える間もなく速斗は仁斗がいるカウンターに向かった。
 泣き腫らしてしまった速斗の顔面めがけて、仁斗はすっかり冷え切ったおしぼりを押し当てて速斗の顔を拭う。
「い、痛い!しかも冷たっ!なにこれちょ、やめてよ!」
 ようやく速斗に笑顔が戻り、仁斗は内心ほっとした。
 速斗の泣き顔は何年経っても見慣れない。
 仁斗の高校進学の際速斗に大泣きされたときには、柄にもなく仁斗の涙腺も緩んだ。
 おそらくその時の記憶が、一種のトラウマになっているのだろう。
 速斗が泣くと、心臓がキンと冷たくなってバクバクする。
 基本的に仁斗は他人に一切興味を持たないが、速斗だけはそうはいかない。
 泣き顔を見続けることなんてできるはずもなく、仁斗は速斗の目元におしのりをねじ込んだ。
「眼なんか腫らして帰ったら、母ちゃんと優菜に笑われるぞ。高校生にもなって易々となくんじゃねぇ。」
 冗談ぽく言いながら速斗の目元を力任せにごしごしこする仁斗。
「わかったわかった!ちゃんと冷やすからこすんないで!痛いってば!」
 速斗は仁斗からおしぼりを取り上げて、きれいに折りたたんで目の上に乗せた。

 おしぼりを乗せたことによって速斗の視界は暗転し、店内の音が鮮明に耳に入る。
 こうして店の中にあふれる音だけに耳を傾けたことは、今までなかった。
『流れる音の全てを音楽と思いなさい。無駄な音なんて今この瞬間に存在しないのだから。』
 母、仁亜麻は生前よくそう言っていた。
 一体何のことを言っているのか、今の今までわからなかった。
 音は音単体であって、音楽は人によって創られ演奏されるものだとばかり思っていた。
 だが視界が絶たれて、初めて見えるものもある。
 食器のこすれあう音、人と人との会話、スタッフの足音。
 そこに加わる和彩のバイオリンの音色。
 色々な音が心地よく混ざり合って、ここにしかない音楽になっている。
 ──俺がこの店が好きな理由が増える一方じゃん。
 音に囲まれる幸福を、速斗はしばらくの間噛みしめた。

 

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