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ノンジャンル

現実

   2016年3月2日  

 仁斗が速斗に評価を出さないまま、スタッフたちが帰り支度をしている時。
 マスターは二人きりになった仁斗から彼の本心を聴きだした。
 それはひどく矛盾していた。

 そして仁斗は速斗と帰宅している時に、残酷な現実を突きつけたのだった。

 

 
 速斗が奏でた音色の変化を、今ホールのいる人間はなんとなく感じ取っていた。
 変化の理由も正体もわからないが、各々耳が肥えているから肌で感じることは十分にできる。
 ディナータイムの時とは全く色合いが異なる選曲だったが、聴いている人間には心地よさをもたらした。
 ピアノの音色が途絶えて、ほんのわずかな静寂ののち、マスターの拍手を封切にスタッフたちからパラパラと拍手が舞った。
 しかし速斗が拍手を待っていた人間からの拍手はない。
 拍手の代わりに、仁斗の眉間には難しそうな深い縦皺が寄っていた。
「速斗。」
 仁斗に呼ばれ、速斗の肩が大げさなほど大きく震える。
「…はい。」
 何を言われるかの見当は、大体ついている。
 幾度となく聞いた“俺の背中を追うな”と言われるんだろうと、速斗の心にジワリと悔しさが滲む。
 何度聞いても慣れないその言葉に、速斗は俯いてした下唇を噛みしめる事しか出来ないのだ。
「帰るぞ。時間も遅いのに全員つき合わせてしまって申し訳ない。」
 なぜいつものように突き放さないのか。
 速斗は勿論、スタッフも疑問を抱く。
 しかし仁斗が口を割らないのもわかっているから、従うほかない。
「はい…。」
 なぜだろう。
 いつのように突っぱねられるよりも演奏に対して何も触れられない方が、速斗の心に相当なダメージを与えた。

 スタッフたちが着替えに行っている間、マスターと仁斗はまだカウンターにいた。
「上園で相当叩かれたようですね。」
 そう言いながら、マスターは仁斗にそっと水入りのグラスを差し出した。
「色物が叩かれるのは世の常でしょ。言われた通りにピアノ弾かない上に生意気ばっか言う生徒なんて、俺だって受け持ちたくないっすよ。俺はそんな生徒だったから、叩かれててもおかしくなかった。」
 学生時代の自分を思い出し、自嘲する仁斗。
「じゃあなぜいい思い出のない上園で先生をしてるんですか?」
 理由はもうわかっている。
 だが仁斗本人の口からその理由を聞かない限り、それはただの空想に過ぎない。
 ここで仁斗を逃すわけにはいかないから、マスターは仁斗の目を見て問いかけた。
「ここで嘘ついたら帰してくんないでしょ?」
 手渡されたグラスをカウンターに置きながら、仁斗は苦笑した。
「僕に嘘つくなんて、十万年早いですね。」
「おっかねぇおっさんだこと。」
 肩をすくめて、深い息をつく。
 全てはマスターの仕組んだとおりだったのだ。
 スタッフが引き上げて着替えをしている間にこの質問を吹っ掛ければ、仁斗は答える他ない。
 早くしなければ着替えを済ませた速斗が戻ってきてしまう。
 そうなることだけは避けたい仁斗は、限られた短い時間内で嘘をつかずに本心を話さなければならない。
 本心を話さなければ、目の前の男は速斗がいようがいまいが関係なく仁斗を放しはしないから。
「俺が上園で先生やってるのは…。」
 本心なんて、口に出したくなかった。
 矛盾を嫌う仁斗が、自分自身の中のどうしようもない心の矛盾を認める形になるからだ。

 ──あーあ…。俺は弱い。

 自分の深層心理をさらけ出すのは苦手だが、本当にこればかりは言いたくなかった。

「速斗を、…迎え入れるためです。」

 上園には来てほしくないという思いと、自分の手で速斗を育てたい思い。
 仁斗はこの思いの板挟みになっているのだ。
「やはりそうでしたか。」
 マスターは静かにそれを受け止めた。
 仁斗の想いは察しが付く。
 根本的な性格がよく似ている速斗に自分と同じ苦労をさせたくないから、速斗には“俺の背を追うな”と言う。
 しかし他の音楽大学に進学して、変な指導者に当たって才能の芽を摘まれてしまうのも困る。
 だから万が一速斗が上園に来たら自分が受けられなかった“個性を認める指導”を、速斗にはしたい。
 速斗には、ひたすら音楽が好きでいてほしい。
 どちらも仁斗の本心であり、祈りでもある。
 矛盾している両極端のそれに、仁斗は一人ひそかにもがき苦しんでいる。
「速斗には言わないでください。」
「言うつもりはありません。安心してください。」
 叩き上げのみで大学の四年間を生き抜いた男は、やはりどこか疲れているようにマスターには見えた。

 

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