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ノンジャンル

レントより遅く

   2016年3月23日  

 今まで感情の赴くままに行動していた仁斗。
 だが彼は彼なりに大人になっていて、今はむやみやたらに速斗を追うことができなかった。
 色々な後悔や自責の念を背負いつつ、静寂に耐えられる筈もなく仁斗はピアノ室へと向かった。

 仁斗と無理に距離を取った速斗は、心身のともに衰弱していてそのままドアにもたれたまま眠ってしまった。
 数時間の仮眠ののちどうしても済ませなければならない日課である入浴を済ませ、未だ働かない脳を働かせようとしていた矢先、本能的にピアノを求めた。

 ピアノ室に入れば兄仁斗が既にピアノを弾いていて、その曲は母が残してくれた大切な曲だったわけで。
 速斗の身体は勝手に動き、ピアノ室で兄弟は数時間ぶりの無言の再会を果たした。

 

 
 仁斗の本心としては、今すぐにでも速斗の部屋のドアを蹴破ってでも部屋に侵入して速斗と話がしたかった。
 今でこそ曲がりなりにも社会に出て大人の端くれとして生活するために働いているから、自分の心に沸いた欲求に任せて行動しなくなった。
 元来他人に一切興味を示さずに生きてきた仁斗にとって、社会に出て相手の気持ちを考慮するというスキルが身についたということは大収穫である。
 これが数年前の仁斗だったら、間違いなく力任せに速斗の部屋のドアを破壊して話をつけに行っていただろう。
 大人になったからこそ、相手の懐に飛び込めない。
 今の仁斗にできるのは、無自覚だったとはいえ自らが速斗にやってしまったことへの後悔と、どうすればひどく傷つけてしまったであろう心の傷に対する償いの方法を考えることのみだった。

 優菜の目に映った仁斗の表情は、焦りの色一色だった。
 てっきり話半ばで部屋から飛び出していくだろうと思っていたのに、その予想を裏切り仁斗は自らにブレーキをかけている。
 ちらりと見えた仁斗の表情は決して冷静とは言えなかったが、衝動的なそれを勢いのまま突き通すことはなかった。
 勢いに任せて立ち上がりはしたが、しばらくそのまま速斗の部屋の方を睨んで小さく一息ついて仁斗は優菜の部屋のドアノブにそっと手をかけた。
「…いろいろ話してくれてありがとな。」
 優菜に背を向けたまま、低い声で不愛想に言葉を投げる。
「どこ行くの?」
 仁斗の広い背中に、思わず湧いた心配の声をかけずにはいられなかった。
「安心しろ。速斗のとこには行かねぇさ。これ以上大事な弟を自分の言動で傷つけるのはまっぴらなんでね。」
 仁斗の言っている言葉は優菜を安心させる要素しか含まれていなかったのに、仁斗からの疲れ切った声色は優菜に今までとは違う心配のもとを心の中に生じさせるばかりだった。

 仁斗は背も高くどちらかと言えば筋肉質で、外見は完全に肉体労働者である。
 だがその体格にはそぐわない、無音の足音。
 これは幼少期の頃の癖が抜けないからだ。
 子どもの頃足音を立ててどたどたと廊下を歩いていると、ごくたまにしか家にいなかった父親から足音がうるさいと怒鳴られ、腹に虫の居所が悪ければ殴られていたという過去がある。
 だから仁斗の足音はほぼ無音なのだ。
 廊下の板が僅かにきしむ音がして、初めて仁斗が廊下を歩いていることに気が付くような音の発生レベルである。
 まるで忍者のような業を会得しているからこそ、仁斗は深夜でも家族の誰かを起こすことなく家の中を徘徊できる。
 今までこんな業を持っていることに対して何の得もないと思っていたが、今日それが大いに役立ってくれた。
 仁斗が誰にも気づかれずに向かったそこは、一階のピアノ室。
 家族の寝室は全員二階に集まっているが、廊下を歩く音で母親が起きてしまうとピアノ室に入るのに待ったがかかる。
「もう遅いんだから、歯でも磨いてさっさと寝な!」
 とどやされ、部屋に連行される。
 女性という生き物は、男性よりも物音に敏感に反応するように体の構造ができている。
 これは女性が母親となったとき、昼夜問わず赤ちゃんに母乳を上げられるようになっているからだという一説がある。
 赤ちゃん、とりわけ生後間もない新生児は身体も小さく泣き声も大きくはない。
 その小さな泣き声を聞き逃さないよう、女性は音に対する感度が男性よりも高いのだ。
 母親という生き物は、とんでもない生き物なのだ。
 その母の耳にも入らない仁斗の足音は、もはや神業と言っても過言ではないのかもしれない。

 静果に気づかれることなくピアノ室に侵入成功した仁斗。
 ピアノ室はドアの部分が部屋の壁よりも五十センチほどくぼんでいて、夜間の練習の際はドアの部分に防音シャッターをする。
 この部屋は全面防音壁で設備としては申し分ないが、全く音が外に漏れないかと言われればそうはいかない。
 ドアは防音という面ではどうしても音漏れの危険が多い。
 開け閉めするための接続部分には僅かではあるが隙間が空いているわけで、それを何とかするためのお愛想程度のグラインド式の防音シャッターを閉める。
 それからグランドピアノの蓋を閉じ、その上に毛布を掛けて、さらにその上から部屋の中に転がっているクッションを乗せる。
 ここまでするとかなり音は殺せるけれど、弾き手としては当然物足りない。
 だが指を動かす練習程度には充分なる。
 今の仁斗がここまで防音に気を付けて深夜にピアノを弾かなければならない理由は、はっきり言って皆無である。
 大きな仕事が差し迫っているわけではないし、どうしても仕上げなければならない曲があるわけでもない。
 だがこのまま何もしないと仁斗のメンタルが持たない。
 あのまま自室にこもり、静寂に耐えながら眠りに就くことなんて仁斗にはできなかったのだ。
 ──さて何を弾くかな…。
 高校に進学するまで毎日弾いていた仁亜麻が残したピアノ。
 今目の前に並ぶこのモノクロの鍵盤を見るだけで、前は心が躍っていた。
 今日は何を弾こう。
 どうすればこの曲を攻略できるだろうか。
 ピアノに向かってさえいれば、時間なんてあっという間に過ぎていく。
 その記憶をたどってピアノに向かったのに、何を弾くか曲目が全く思い浮かばない。
 ──くそ。
 泣きそうになった。
 何もできない非力さがただ悔しくて、無責任に発した言葉を憎んで。
 終わったことを恨んだところで、もうどうしようもない。
 そんなことはわかっている。
 わかっているが、悔やむ事しか出来なかったのだ。
“トーン…。”
 どこかの音を心なく右手の人差し指が押さえれば、いつもよりも幾分くぐもった音が部屋の中にむなしく響いた。

 

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