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ノンジャンル

待ってるから

   2016年3月30日  

 重苦しい沈黙を破ったのは、速斗の低い声だった。
 言葉足らずだった兄弟の間のしこりが、少しずつほどけていく。
 そして仁斗は、速斗に素直な気持ちをすべて包み隠さず語ったのだった。

 

 
 両者ともに、話したいことは無限に湧いてくる。
 しかし話したい事よりも、話さなければならない事の方がその百倍ある。
 話したいことは頭の中にも腹の底にもあるのに、それが言葉となって口から飛び出してくれない。
 ──もう泣かせたくない…。
 弟を傷つけることが怖くてならない兄。
 少しずつではあるが不器用に大人の階段を上ってきた仁斗。
 大人になったからこそ、子どもだった自分の今までの軽率な行動と言動が許せないしやってしまったことにどこか怯えている。
 今までなら視線を逸らすことすらもったいないと思う二人なのに、今は互いに視線を合わせるどころか二人とも斜め下を向くばかりである。

 掛け時計が刻む一秒の音が重い。
 秒針が刻む音が、とにかく重くそれでいて二人の体と心に突き刺さる。
「一つ、聞いていい?」
 仁斗の方を見ることなく、静かで低い速斗の声が二人の沈黙を破った。
「ああ。」
 どんな顔をして速斗を見ればいいのかわからず、仁斗も速斗の方を見ることなく短い返事をした。
「仁斗は俺に先がないって言ったけど、先がないってわかってる俺になんでわざわざレッスンなんてつけてたの?」
 仁斗が帰省すれば、日がな一日二人でピアノ室にこもっていた。
 雑談ももちろんたくさんしたし、ピアノを弾いていない時間は確実に存在していた。
 こんなことがあった、あんなことがあったと、話し始めれば切り無く話し笑いあった。
 しかしそれがひと段落すれば、仁斗は速斗に熱心なレッスンを付けた。
 その力の入れようは、普段大学で生徒にレッスンをつけるときの比ではない。
 とにかく熱心に速斗の奏でる音を高みへと導くものである。
 仁斗がレッスンをしていくれている時間は、速斗にとっては最高のプレゼントだった。
 どんな人からの指導よりも仁斗からの一声が、確実に自分の中に浸透しているのを速斗自身が誰よりもわかっていた。
 どんな答えが返ってくるかなんて予想もできないけれど、最悪の場合の答えに速斗の気持ちの照準が定まる。
「…。」
 弟からの問いかけに、何と答えればいいのかわからず仁斗は息を飲んだ。
 もう傷付けたくないという一心で、言葉が紡げなくなってしまっている。
 いつもどんな問いかけにも即答してくれるはずの兄の無言に、速斗の心臓がずきんと痛む。
「…レッスンをつけてくれてたと思ってたのは、俺だけだったみたいだね。」
 自分が思っていたことと仁斗の行っていたことがイコールで結ばれていない。
 それは速斗の心の中に冷たい雨をもたらした。
「違う。俺だってレッスンのつもりでお前に演奏指導をしてきた。」
 どんなに優しい言葉を選んでも、速斗を傷つけてしまうような気がしてならない。
 逃げたいと思う気持ちに素直になって逃げてしまうことも一瞬脳裏をよぎった。
 だが逃げるのは性に合わない。
 腹を括らねばと、仁斗は小さく浅い深呼吸をした。
「弟だからレッスンしたの?」
 速斗からの質問はやはり胸にこたえる。
「そうだが、ただお前が弟だからってだけでレッスンしてたわけじゃない。」
 速斗の質問を真っ向から受け止めて、素直な答えをする。
 誠心誠意、嘘偽りなく。
 それが仁斗の選んだ答えだった。
「俺がレッスンしてるとき嬉しそうだったからレッスンしたの?」
「それも一理ある。でも正解じゃない。」
「じゃ何なの?」
 仁斗の本心が見えない。
 今まで優しくて誰より近かったはずの仁斗が、今はとにかく遠くの存在にしか思えなかった。
「お前の音楽を伸ばしたくて、その一心でレッスンをつけてた。」
 それは速斗が想像もしなかった、仁斗からの答えだった。
 速斗の顔が、無意識に上がる。
「待ってよ。俺の音楽には先がないんでしょ?」
 自分の音楽に先がないから、だから仁斗は俺の後を追ってくるなと言っていると思っていた。
 そう信じていた。
 だが今の仁斗の一言で、速斗が信じ込んでいた全てが覆ったのだ。
「そうさ。俺にだけ聴かせるための音楽をしているお前がこのまま変わらなければ、お前の音楽に先はない。俺とお前じゃ、音楽の質が違いすぎるんだ。」
 仁斗の述べている言葉の意味が分からない。
「どういうことかわかるように言ってよ。…今日は泣いたからもう頭が働かない。」
 甘えとかなんだとか、そんなことではない。
 仁斗の腹の底にある思いを仁斗の口から聞き出したかった。

 

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