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踊り始めた音色

   2016年4月6日  

 仁斗を見送り、ピアノ室の棚にある母の古い楽譜を速斗はそっと胸に抱いた。
 仁斗に追いつくように頑張るからと、天国の母に速斗は話した。

 速斗の変化は、仁亜麻の母であり仁斗と速斗のピアノの師である祖母が誰より敏感に感じ取っていた。
 踊り始めた速斗のピアノに、祖母の表情も自然と綻ぶのだった。

 

 
 言葉足らずだった兄弟の気持ちが通じ合ったあの日の夜、仁斗から指摘された顔も知らない“誰か”の為にピアノを奏でるということの意味。
 それが不特定多数の“聴衆”を指していることは、速斗にも分かった。
 だがその“聴衆”に聴かせるような音楽を仕上げていくためには、どのような練習をすればいいのか。
 その答えまで教えてくれるほど仁斗はお人よしではない。
「まずは俺以外の人間の為に、何か一曲仕上げてみろ。まずはそうやってみてからじゃなきゃ、何をどうするかもわからない。どこの部分にどんな抑揚をつけてどんな気持ちを乗せるか。どれで聴く人間が、お前の音楽にどんな風景を見出すのか。学ばなきゃならんことは、山積みってわけだ。」
 仁斗の言葉には、重みと力がある。
 セリフだけなら今までとそう変わり無いが、今はそれに温度があるのが伝わってくる。
 だからだろう。
 今までのような寂しさは抱かなかった。
 寂しさはおろか、速斗の心はなぜか妙な高ぶりすら覚え始めている。
「頑張らないと、また置いてかれちゃうや。」
 無駄な力の抜けきったヘラリとした速斗の笑みと言葉が、仁斗の心に先制パンチをくらわす。
 仁斗は小さく笑い声をあげ、速斗のおでこをピンッ!と人差し指弾いた。
「イテッ!」
「なにぬるい事言ってんだか。置いてかねぇし、待ってやるって言ったばっかじゃねぇか。さっさとうまくなって俺のいるとこまで登ってこい。ヒヨッコめ。」
 憎まれ口の叩き方もピアノも、今は仁斗にかなうわけがない。
 無駄口をたたき合い、二人は目を合わせてプッと吹き出して小さな声を上げて笑い出した。

 ──久しぶりに笑った顔見た気がする。

 今目に映る兄弟の笑顔に、両者ともに心和ませ同じことを思った。
「速斗。」
 一つだけ、仁斗には心配事がある。
「なに?」
 純粋な俺の弟は、誰よりも心優しくて繊細だから。

「助言にはしっかり耳を傾けろ。でもな、誰か一人の色に無理に染まることはないし、染まっちゃならんからな。それだけは覚えとけ。」

 誰かの期待に応えるうちに、自分の気持ちはおろか自分さえ見失いかねない。
 仁斗はそれだけがとにかく心配だった。

 翌日の夕方、仁斗は居住しているマンションへ帰っていった。
 やはり別れは寂しいものだが、今の速斗には具体的な目標がある。
 駅のホームで電車に乗った仁斗を見送り、小さくなっていく電車の尻尾を見送りながら鼻息を荒くした。

 ──よーし!やるぞっ!頑張らなきゃ!

 一日も早く仁斗に追いつきたい。
 高鳴る胸の鼓動に、速斗の気持ちが高ぶっていく。

 仕事で依頼を受けた曲が、今速斗の手元にある。
 帰宅後早々に速斗はピアノ室に入り、ピアノの脇にある本棚に向かった。
 今本棚に収納されている教本は、速斗と仁亜麻と優菜のもの。
 どれも同じ教本が三冊ずつ並んでいる。
 一人につき一冊ずつ自分の教本を持っているから、仁斗が高校進学して家を出るまではここに仁斗の愛用している教本も並んでいた。
 教本と一言に行っても、同じものでも見るからに個性が出る。
 優菜は本を大事にするし、本自体がまだ若く新しい。
 速斗は少し背表紙が解れ始めていて、仁亜麻に至っては本そのものがボロボロである。
 仁亜麻が残した教本は、仁斗と速斗にとっては道しるべそのもの。
 わからない事があれば何でも仁亜麻が教本に手書きで書きこんでいる。
 彼女はおそらくわからなくなるであろうことを、あらかじめすべて自分の教本に書き残していたのだ。
 だからそれを見れば、大体のことはわかる。
 だがそれに頼り切るのはよくないわけで、そのことは仁斗も速斗も重々承知している。
 だからどうしても行き詰ってにっちもさっちもいかなくなった時に、一瞬だけちらりとみるものだと決めている。

 ──母さん…。

 自分のものと同じ、母の教本。
 それは使い込まれ、本の周りはボロボロで、色褪せていて。
 下手をすれば触った衝撃でページが抜け落ちてしまいそうなほどガタガタで、補強の為に貼ってあったのだろう敗れた箇所を留めていたセロハンテープすらも黄ばんで固くなり、ふとした瞬間にボロりと取れてしまう。
 その中の一冊を手に取って、速斗はそれを大事に大事に胸の中に抱きこんだ。

 ──見ててね、母さん。俺、頑張るから。

 母の本から香ってくる、古い本の香り。
 それは速斗にとって、母の香りそのもの。
 殆ど速斗の記憶には残っていない、仁亜麻の姿。
 本の中にいる母に、速斗はそう誓ったのだった。

 

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