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ノンジャンル

新しい世界へ

   2016年4月13日  

 速斗が今まで考えもしなかった“自分らしさ”。
 それが消えつつあることを和彩から忠告された。
 自分らしさとはいったい何なのか。
 それは今の速斗にはわからない。
 だがそれはとても大切なものだし、ここで他人の欲求に埋もれてしまうのはあまりにももったいないから。
 和彩は速斗にある提案をして、速斗はそれを受けて自ら新しい世界へ一歩踏み出すのだった。

 

 
 人の為にピアノを弾くことは、全く苦ではない。
 今までバイトで演奏の依頼を受けて、依頼主が好みそうな音色で頼まれた曲を仕上げてきた。
 幼い頃から仁斗以外の人間、とりわけ大人と安定していて尚且つ継続した信頼関係を築けないままここまで成長してしまった。
 母が幼くして天に旅立ち父が亡くなるまでの数年間、何がきっかけで突如として癇癪を起す父の顔色をうかがいながら成長した結果、速斗は相手の顔色を無意識のうちにうかがってしまい、相手が言わんとしていることもどんなものを求めているのかも大体察しがついてしまうようになった。
 大人の顔色をうかがうことは、速斗が生き抜くために身についた後天的な一種の才能と言っても過言ではない。
 そうしなければ、例え自分の息子だったとしても癇に障れば真冬でもパンツ一枚にして外に放りだしていた父と短い期間とはいえ生活していくとなると生死にかかわる。
 自分が生きていくためには、親であろうと大人の顔色をうかがい続けることは必須条件だった。

 精神的に苦しかった生活も、今となっては生きていくための立派な糧となっている。
 依頼主の顔を見ているだけで、相手がどんなことを求めているのか手に取るようにわかるのだ。
 今目の前にいる大人が、自分に対して友好的な感情を抱いているのか。
 どんな音色を求めているのか。
 相手に合わせて臨機応変に求められる音色で、リクエストされた曲を弾きこなす。
 そうすれば依頼主はとても喜んでくれる。
 人が喜ぶ顔を見るのは好きだ。
 それも自分の演奏で相手が心から喜びを感じてくれるのなら、これ以上のものはない。
 だからこのまま、自分に演奏を依頼してくれる人の好みの音が表現できるよう、音楽を続けていれば今よりもっと高みへ行けると思い込んでいた。

 仁斗と別れて約一か月が過ぎた。
 季節はだんだんと秋の気配を漂わせ始めている。
 とはいっても涼しいのは朝晩だけで、日中は半そででちょうどいい。
 いつも通りランチタイムを乗り切り、昼休憩に入ってすぐのこと。
 和彩の肘が、速斗の肘に当たった。
「あっ、すみません。」
「違うわよ。私がわざと貴方にぶつかったの。」
 和彩は若干苦笑しつつ、速斗に言葉を返した。
 和彩は本来こんなことをする人柄ではないし、どちらかと言えば他人とはほとんど接触を求めない性格である。
 大学が一緒だった心治と大和以外には、びっちりと一線引いているのが見るからにわかる。
 だから速斗は少し戸惑いながら、和彩を見つめて小首をかしげた。
「最近よく練習してるわね。前より音に自信がついたように聴こえる。」
 ほとんど他の人間の演奏に口出ししない和彩が、速斗のピアノの音色に食らいついてきた。
「そうですか?なにか変わりましたか?」
 褒められると素直に嬉しくて、速斗の表情がほころぶ。
「そうね。音の強弱もはっきりしてきて、お客さんの求める音を一層表現できてると思う。」
 普段褒めてくれない人間からの褒め言葉は、とにかくよく心に効く。
 速斗の嬉しそうな表情を見て、和彩は一瞬罪悪感にさいなまれた。
 しかしこれをいわなければ、彼の才能が潰れてしまうから。
「でもね、貴方らしさがなくなってきてる。」
 和彩は速斗の目を見て、はっきりと言った。
 当の速斗は和彩の想像通り、キョトンとしている。
「たぶん自覚してないと思ってね。このままだと他人の音楽に埋もれてしまう。そこに埋もれるには貴方はもったいなさすぎるし、今からなら立て直しが効く。」
 和彩に指摘されるまで、全く考えもしなかった。
“自分らしさ。”
 そんなものに気を使ったことなんて、今までの人生で一度もない。
「俺、らしさ…?」
 和彩が言ったそれが、速斗は理解できずにいる。
 ピアノの演奏に“自分らしさ”なんて必要ないし、むしろそんなものを織り込んでしまったら邪魔だろうと思うほかない。
 だから“貴方らしさがなくなっている”と言われたところで、“もともとそんなもの持ち合わせていない”としか思考が廻らない。
「その顔だとそういう事を全く気にしたことがなかったみたいね。」
 自分の言葉に大きな瞳を瞬かせる、背の高い後輩。
 聴き手として彼の音楽に触れていれば、彼にしかない魅力は誰もが感じる。
 しかしそれは、弾き手本人はどうしても気づきづらい。
 これは速斗に限ったことではなく、誰もがみんな通る道だ。
 人は成長する過程で、いつからか“自分とはいったい何だろうか”と、哲学的なことに思い更ける時期がある。
 自分とはいったいどんな人間なのだろうか。
 大人は“自分らしさを大切にしろ”というけれど、それは具体的になにを指しているのだろうか。
 思春期に抱くそれに、誰しも多かれ少なかれ苦悩する。
 自分には、アニメキャラのような何か特別な力が目に見えているわけではない。
 どうすれば“自分らしさ”を掴むことができるのだろうか。
 漠然的な不安や焦りを感じないままに大人になった人は、おそらくいないであろう。
 音楽もそうなのだ。
“自分らしさ”とは、いったい何なのか。
 作曲家が作った楽譜を弾く人間は、星の数ほどこの世の中には存在している。
 楽譜には強弱も表現方法も速度指定だってあるのに、ここまで規制された中で個性は必要なのか。
 楽譜の表記通りに弾くことが正義なら、個性なんて必要ないのではないか。
 今はこの思いを胸に抱く速斗と、その想いの先にいる大人の先輩たち。
 速斗の驚きと困惑の入り混じる表情に、彼らは無言で共感するばかりである。
「じゃあ例えば、心治君と諒君が同じショパンの英雄ポロネーズを弾いたとするでしょ?二人とも同じ曲を弾いてるけど、二人の音色は同じに聴こえる?」
 和彩のそれに、速斗の表情が見る見るうちに晴れていく。
 ──そういわれれば全然違う。
 速斗がようやく音の個性に気づき始めた瞬間だった。

 

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