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ノンジャンル

見納め

   2016年4月20日  

 いつも彼女を“ばあちゃん”と呼び怒られる速斗が、初めて彼女を“先生”と呼んだ。
 彼から話を聞き、先輩から伴奏を頼まれたことを知る祖母。
 今まで伴奏は断り続けていたから、その心境の変化がどうしようもなく嬉しかった。

 そして速斗の抱く夢を知り、彼女は最後になるだろう“プロ”としての指導を速斗にして始めるのだった。

 

 
 いつも通り指慣らしを終わらせて、今抱えている教則本を開くはずの速斗が身動き一つ取らずにいる。
 なんとも言えない緊張感が、速斗の背中から伝わってくる。
 何かあったのかと声をかけようとしたが、速斗が背を向けたまま話しかけてきた。
「…先生。」
 背中から伝わってきていた緊張感は、しっかり声からも伝わってきた。
「なに?」
 いつもなら間髪入れずに彼女のことを“ばあちゃん”と呼び、彼女が“レッスンの時は先生って呼びなさい”という、お決まりのやり取りをするのに。
 今日はそれがない。
 それだけではない。
 速斗が自発的に彼女を“先生”と呼んだのが、実は今この瞬間が初めてだった。
「今日からこの楽譜も、追加で見てくれますか?」
 敬語を使ったのも課題以外の曲を持参してきたのも、今日が初めてである。
 ひたすら真っすぐ穴が開いてしまうのではないかというほどの眼力で速斗から見つめられ、彼女は手渡されたプリントを手に取った。
「バイオリンの伴奏譜ね。これくらいの内容ならあなたの技術だと問題ないけど、なぜいきなりバイオリンの伴奏なの?」
 今までこちらから曲を提案するか、バイト先で演奏依頼を受けた曲しか速斗は手を出さなかった。
 仁斗を心底慕っているのは知っているが、仁斗のようにこの曲が弾きたいだとかこんな曲弾いても仕方ないだとかということは一切言わなかった。
 指導する側からしてみれば、速斗はとても扱いやすい生徒だ。
 しかし速斗はいつもどこか淡々としていて、どこか冷たく、本心の見えない人形のような雰囲気すら感じていた。
 心配というよりも、速斗を見ていると不安で仕方なかった。
 速斗の心には、消えることのない底なしの穴がある。
 その穴は仁斗の進学を機にじわりじわりと大きくなっていて、言葉なく見えないように一人苦しむ姿に心がどれだけ傷んだことか。
 だが、それが今何の前触れもなく急速に小さくなっていく。
 彼女はジワリと手に滲んだ汗を、静かに握りしめた。
「バイト先でお世話になってる先輩から、伴奏の話をもらったから、その場で伴奏の話を受けてきました。」
「その場でって…、伴奏の話をもらってすぐに引き受けたってこと?」
「そう。」
「あなたにしてはずいぶんと無鉄砲なことをしたんじゃない?いつもは私に相談するかお断りするかなのに。」
 彼女の言う通り、速斗は誰かと組んで音楽をすることを嫌ってきた。
 なんでも引き受け、人前に出ることを好む仁斗。
 自分の音楽を惜しげもなく披露し、聴衆の意見に耳を傾け時に反論する。
 そのはっきりと白黒ついている性格と一癖も二癖もある音楽表現法は、それを好むものを虜にする反面そのスタイルを嫌うものも正直な話少なくはない。
 一方の速斗は、ひたすら楽譜に忠実で、まさしく音楽の模範のような演奏のみをしてきた。
 人前での演奏に抵抗を持っている上に、自由を捨てて規律のみでピアノを奏でている節もある。
 絵に描いたような“正しい音楽”は、広く浅く様々な人から好かれるが、印象には残りづらい。
 消極的というのはいささか言葉が合わないが、少なからず積極的とは言えない。
 仁斗の背を追っているにもかかわらず、速斗は仁斗と正反対の行動ばかり取ってきた。
 その速斗が二つ返事で頼まれた伴奏を引き受けたことは、どこか信じられない。
 バイト先の仕事でさえ伴奏の話をもらってこなかったから、尚更である。
「いろんなことをして、今までたったことのない立場と視点から音楽に触れて、たくさん経験を積みたいんだ。俺もようやくやりたいことに着手できる気がしてきた。一緒に演奏するバイオリニストの先輩からの助言もあったから、やってみようと思った。俺の技術でも大丈夫かな…。」
 いつにない速斗の前向きなそれに、感心もしたがジンとする。
 何があったか詳細は知らないが、速斗が自分の意志で前進してくれるのならば、何の文句もない。
 不安げな速斗の表情さえも、今はとにかく愛しい。
 内心感激の嵐だが、彼女の表情はいつも通りのまま再度楽譜に目を落とす。
「何の心配もないわ。大丈夫。それより一緒に演奏する先輩の名前を教えてちょうだい。」
 まだ若いだろう、速斗の言う“先輩”。
 聞いたことのある名前なら、相手の実力も音楽の傾向もわかる。
 その情報によって、速斗の音色の指導の内容が変わる。
「相良和彩さん。仁斗と同じ上園のバイオリン科を卒業して、今俺のバイト先で従業員兼バイオリニストをしてる。」
 上園出身者はピアノ科ならそこそこ話がどこからともなく舞い込んでくるから、名前なら聞いたことのある人が何人かいる。
 しかしバイオリン科となると、やはり話が違った。
「名前だけなら聞いたことある方かと思ったけど、そうではなかったみたいだわ。女性の方?」
「そうだよ。すごくクールで厳しいけど、面倒見のいい人でとても尊敬してる。」
 希望の光を含んだ速斗の瞳と表情を見ているだけで、彼女は涙が滲みそうになる。
「それは良い方にお誘いして頂けたようね。しっかりついていきなさい。」
 今までになかった夢に満ちた速斗の姿を見ていると、彼女の心はもう“先生”ではなく“祖母”である。

 

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