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歴史・時代

武蔵試し(前)

   

諸国を回り、熊や狼などの猛獣に悩まされる村を助け、かつ獣たちとも意思を交わしあえる熊司(くまつかさ)。

その中でもずば抜けた能力を持ち、さらには並外れた巨体をも有する「熊鬼」は、当代随一の剣豪、宮本 武蔵の名を騙り修行の旅を続けていた。

ある日熊鬼は、西国の山道で、熊に襲われようとしていた老人、吉佐を助けたところ、大変に感謝され、村での宴席に招かれた。

上機嫌で酒を飲んでいると、他の村人とは雰囲気が違う男が熊鬼に話しかけてきた。何でも彼は、武蔵から教えを受けた直弟子らしい。そんな彼に対して熊鬼は、「自分こそが武蔵である」と堂々と言い放つ……

 

 うっそうとした木々に囲まれた山道、ぎらぎらと照りつける西国の日差しも阻まれて半ばほども届かない細い道を、一人の男が歩いていた。
 身の丈、六尺五寸(百九十五センチ)、骨太で分厚い肉体は、異様とも言える長身を異様に見せないほどの作用を示していた。
 もっともそれは、かなり遠目から見てのことであり、赤黒い肌に隆々とした筋肉を盛り上がらせ、背中から胸までびっしりと体毛に覆われた肉体を見れば、誰でもその男が尋常ならざる力の持ち主だと気付くはずだ。
 ただ、巨大な丸顔の中央に集められた目や口には物騒な雰囲気はなく、ボロ布を継ぎ合わせた服や、首に巻いた風呂敷包みからは、武士には見られない大らかさが示されてもいる。
 腰に差している大小も、右手に握られている杖も、森の中でくたびれかけていた雑木をへし折り乾かしただけのもので、とても刀と言えるだけの厳格な基準を満たしてはいないように見える。
「さあて、あと一里ってとこだったべえよ」
 男は、辺り中に響くような太い声を響かせ、気を取り直すかのように背筋を伸ばし歩を早めた。
 巨体が滑るように前へ進んでいくが、体も頭もまったくブレておらず、わずかな足音すら漏れ聞こえてこない。
 異様の巨体を完全に活かしきっているのである。
 もっとも、訓練をしたためにこうなったわけではない。仲間たちがしていることを真似したに過ぎない。
「お、お助け……っ!!」
 と、突然、高くひび割れるような声が響いた。
 老人のものであろう、そう思った男は表情を変えず、歩行速度だけをさらに早めた。
 圧力に耐えかね、履いていたわらじが破れたが気にすることはない。
 長年山道で使い込んできた男の足は、乾いた菱の実がぎっしり敷き詰められているような地面を進んでも、わずかな血を滲ませることもないのである。
「おうい、大丈夫だべか」
 男はすぐに「現場」にたどり着くと、のんびりとした声を出した。
 道端に倒れ込んだ老人は、男の顔を見るなり再び悲鳴を上げかけたが、すぐに気を取り直したかのように、震える指で林の中を指差した。
 ただでさえうっそうとした森の中に、黒い小さな岩のようなものが含まれていることに男は気付き、小さく頷く。
 そして老人をかばうようにずいっと体を割り込ませると、雑木の幹をそのまま切り出したような杖を、大上段に振りかぶった。
「腹を空かせてるんだ。ちょっとお天道様のご機嫌が悪かったからな」
 林の中にいたのは、かなり大きな月輪熊だった。
 体長五尺(百五十センチ)近い肉体は骨張っており、よく見ると至るところに古傷があるのが分かる。
 ややぐらついた牙を見せながらグルルと唸る姿にも、強者特有の余裕や貫禄といったものはまるで見られない。
「頭を冷やすだぞ、若いの。無理して人なんて襲ってもなんもいいことねえ」
 男の声も表情も、場の雰囲気にはそぐわないほどにのんびりとしていたが、月輪熊はその声色にも過敏な反応を示した。
 喉を絞るように吠え声を発したかと思うと、全身にぐいと力を込め、重心を前に傾ける。
「彼」の巨大な骨格と筋肉から発せられる瞬発をもってすれば、大抵の野生動物は一瞬で破壊されるだろう。
 だが、黒い巨体は飛び跳ねることはなかった。
 それよりもずっと早く、赤銅色にも見える太く分厚い雑木が熊の鼻先に振り下ろされていたからである。どご、という深い音とともに、程良く水分が染み込んだ地面が避け、衝突点から円状に穴が穿たれた。森に住まう鳥や小動物たちが、何事かと囁き出す。
 種族の壁を超えた、圧倒的な実力差が示されたことは、誰の目にも明らかだったはずだ。
「ガア、アアアア……!!」
 熊は、獣と接したことがない者でも、はっきりと悲鳴だと分かる声を残して駆け去っていった。
 男は、割れた地面から杖を抜き取りながら、ほっとしたような息を吐いた。

 

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