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歴史・時代

武蔵試し(後)

   

決闘の当日、熊鬼はスッポンを釣り、酒を飲んでいた。約束の時間に少し遅刻し、しかもほろ酔いで行くことであわよくば相手である小次郎のやる気を削いでしまいたいという作戦だった。

だが、試合の場である舟島に向かおうとしたところ、近くで見知らぬ少年が苦しみ出すという事態が発生する。

熊鬼は、職業上の経験や知識などを活かしてあたった結果、何とか治療に成功したが時間が食われ過ぎてしまった。少し遅れていくつもりで時間を使っていたのが裏目に出て完全な遅刻である。

「武蔵」が来ないとみた相手が帰ってしまったら、当然試合放棄となり、小次郎とその一派が大阪で暴れまわるのを防ぐこともできなくなってしまう。

熊鬼は決闘の場で、無事に小次郎と会うことができるのか……?

 

「よいしょ、と、こんなものでいいべか」
「はっ、はいっ。ありがとうございます、旅のお方。この辺最近増えちまいやがって、吾作なんか指をちぎられたんですよ」
「まあ、恨みは残さんようにきっちり食って供養してやる方がいいな。殺生と言えばそうだが、何しろ精がつくぞ」
 熊鬼は、傍らに山と積まれた、甲羅を背負った生き物を村人に向けて差し出した。
 亀、いやスッポンである。普通の亀よりも気が荒く厄介だが、その分血肉に強い精が宿っている。
 東国では馴染みが薄いが、西国の一部では食されている。
 常に全国を歩き回る熊司たちは、農耕や牧畜はまったく苦手だが、野にあるものの知識と調理の仕方には精通している。
 特に熊鬼は、大抵の動植物なら生で食える一方、食材の捌き方にも凝っており、旅先で料理を振舞うことも多かった。
「教えた通りにきちんと砂は吐かせた方がいいべ。わっしも横着して難儀したことがある」
「へえっ、そりゃもう気を付けますんで、本当にすみませんでしたな」
 村人は、川岸に座り込んだ熊鬼に向けて手を振り、立ち去っていった。
 もっとも、熊鬼としても長居する気はない。
 昨夜泊まった宿の親父からスッポンで困っているという話を聞いたから退治に出向いただけのこと、特別釣りが好きというわけでもない。
「そんじゃあ、そろそろ行くべえか」
 熊鬼は声を発して立ち上がり、右腰にある巨大な酒びょうたんを口元に持っていき傾けた。
 この辺の家が勝手に作っている濁酒の風味の中に、新鮮な血生臭さが快く混じり合う。
 先ほど釣っていたスッポンのうちのいくつかを捌き、その血を流し込んでおいたのだ。酒のせいだけではなく、体の芯から熱くなっていくのが分かる。
 無論血は生物であるため早く飲まないと悪くなってしまうが、熊鬼は今日だけで全部頂いてしまうつもりだった。
 普通人ならまず立っているのも難しくなるほどの暴飲である。だが、あらゆる毒に極めて強く、六尺五寸の巨躯を有する熊鬼はほとんど酒に酔わない。この程度の量では、軽く喉を潤す程度である。
 では何故飲んでいるのか。単なる嗜好からではない。
 体の隅々にまで酒の匂いを染み込ませたいのである。
 そうした状態で佐々木 小次郎と立ち会うことで、宮本 武蔵はまったく不真面目であるという印象を植え付けるというのが、熊鬼が思いついた策だった。
 酩酊状態であれば、もし相手に勝ったとしても「武蔵伝説」には傷が付くし、うまくすれば小次郎の方がやる気をなくして、優劣を決めるのはまたいずれ、ということを言い出してくれるかも知れない。
 そうなれば小倉藩は方針が決まらず、大戦に軍団を投入しない可能性も出てくる。これは熊鬼からすれば喜ぶべき事態である。
 武蔵が率いようと、武蔵と同等以上に強いらしい小次郎が率いようと、鬼に率いられた集団は疑う余地なくもの凄い成果を、つまり膨大な殺戮を行うことになるだろう。しかも、領土自衛のためでなく。
 だから、動けなくしてしまいたいのである。
 人同士の争いには手出し口出しをしないのが熊司としての原則だが、立場を離れ、熊鬼個人として考えた場合、できる限り戦は食い止めたいというのが本音である。
 食のためではなく、共食いを続ける人間の戦に、美しいものはないのだという持論を、熊鬼は有していた。

 

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