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二枚のスタンプカード

   2016年6月8日  

 速斗は上園に進学することを決めて、ほどなくして諒の父である礼がピアノフォルテに月一回定期的に通うようになった。
 しかし前ほど彼はうるさく速斗に話しかけてくるわけではなく、来店したら閉店までいる。
 そんなある日、礼がマスターにスタンプがたまったカードを二枚手渡した。
 一枚は和彩と速斗にバイオリン曲を依頼し、もう一枚の演奏者に選んだのは諒だった。

 

 
 諒の父であり上園音楽大学の教員でもある礼がレストランに月一回通うようになったのは、速斗が上園への進学を決めてほどなくしてからだった。
 礼は以前のように猛アタックしてきて、上園には入れだなんだと言ってくるわけではない。
 このレストランのルールにのっとって、スタンプカードがいっぱいにならない限りは、スタッフに雑談を持ちかけることもなかった。
 姿を現すのは、速斗がシフトに入っている土曜日で固定である。
 月一回どの土曜日の来るかはわからないにしても、一度来店するとランチタイムもディナータイムも開店直後に来店して閉店間際まで同じ席に座り続けている。
 邪魔にならないよう礼なりに気を使っているようで、決まってカウンターの一番隅の席に座る。
 礼が来店すると諒は一瞬だけ表情を曇らせるが、そこは客と従業員という立場をわきまえているようで、諒は礼に対しても他の客と変わらない対応を取っている。
 その点礼はその部分の割り切りは苦手なようで、諒が自分の接客に入ると目も合わせようとしない。
 物事を割り切るという点では、諒の方がはるかに大人なのだ。
 親子であり同じ父親という立場にありながらも、二人の歩んだ人生はあまりにも違いすぎる。
 方や自分の得意とする音楽で大学教諭という安定した職に就き、方や不安定な生活をしながらいろいろな現場で苛め抜かれて今がある。
 苦労の仕方もその種類も桁が違うのだ。
 それは諒が礼に対して行う対応にありありと出ていて、スタッフたちは諒のたくましさを目の当たりにした。
 諒の中では、父子であろうと今は“客”と“店員”、それ以上でも以下でもない。
 音楽という分野のみを歩み極めてきた人間と、そうでない人間の違いをスタッフたちは垣間見た気がした。

 季節は流れ、秋が終わりに近づいてきた頃。
「マスター、ちょっといいですか?」
 カウンターの向こうでワイングラスを磨くマスターに、礼が声をかけた。
「はい、どうされましたか?」
 グラスを隣にいた飛由に預け、マスターは礼のもとに歩いていく。
 礼は毎回心配になるくらいの量の酒を飲む。
 どうやらザルというやつらしく、酔っている姿を見たことがない。
 今回はどんなカクテルを注文するのかと思っていたが、マスターの予想は大きくはずれた。
「スタンプカードがたまったので演奏依頼をしたいのですが、構いませんか?」
 そう言いつつ礼がマスターに差し出したのは、確かにスタンプマスがすべて埋まったカードだった。
「承知いたしました。ご指名はどなたでしょうか?」
 礼の指名する人間のおおよその検討はついている。
 だが、一応誰なのかを確認する必要はある。
「南野君と相良君にバイオリン曲を。それから、」
「それから…?」
 マスターは思わず礼に問い返した。
 カードは一枚につき演奏曲は一曲と決まっている。
 礼がこのレストランには生徒のスカウトに出向いてかなり長い年月が経っているから、カード一枚に対して複数の曲をリクエストするという初歩的なミスをするとはマスターは思っていなかったのだ。
 礼は現時点で相当量の酒を飲んでいるから、間違えたのかもしれない。
 何事も確認作業は大切なのだ。
「ああ、失礼。重なっていてわかりづらかったけど、カードは二枚あるんです。」
 そう言いつつ、カウンターに置いたカードをずらしそれが二枚あることを礼はマスターに見せた。
 確かに今マスターの目の前には、スタンプが満員御礼状態のカードが二枚ある。
 スタンプが溜まるスピードが速くないかとマスターは一瞬思ったが、毎回来店すれば浴びるように酒を飲んでいるのだ。
 そう考えると妥当な速さだと言われてしまうと、そんな気もする。
「演奏の件、承りました。今からもう一人もご指名になりますか?」
「そうですね。ついでに。」
 速斗と和彩にバイオリンの演奏を依頼するといった時との、わかりやすすぎる礼の温度差。
「とりあえず南野君たちを呼んでいただいていいですか?じゃなきゃ、彼帰っちゃうでしょ?」
 礼の言う通りである。
 速斗は未成年のため、ディナータイム時は時間がきたら帰ってしまう。
「そうですね。では彼らから声をかけます。」
 マスターは右手首に付けている腕時計に視線を移しつつ、話を進める。
 時刻は20時を過ぎたところだった。

 

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