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ノンジャンル

約束の日

   2016年6月29日  

 礼から演奏依頼を受けた日が来た。
 朝は生みの母である仁亜麻の仏壇前で、思いにふけり家を出た。
 ランチタイムを経て、ついに迎えたディナータイム。
 緊張している速斗に、大人たちが声をかけていき少しずつ緊張の糸がほぐれていく。
 そして約束の時間がやってきた。

 

 
 礼が演奏依頼を指定した日がやってきた。
 演奏依頼の前日は、珍しく早くベッドに入り朝までぐっすりと睡眠を摂ってすっきりと目を覚ました。
 まさに普通の高校生のような生活リズムを、速斗は送ったのだ。
 目覚めて普段はあまりとらない朝食をしっかりと摂って、生みの母である仁亜麻の仏壇の前の座布団の上に腰かけた。
 何か話がしたいはずなのに、何を話していいのかわからない。
 時間が経過する中、ただただ無言で仁亜麻の仏前に座りぼんやりと仏壇の上に飾られた彼女の写真を眺めるばかりなわけで。
 バタバタと仕事に出ていった母と、何かの用事で家を空ける妹を声だけで見送ったような気がする。
 いしきが二人に向いていなかった、何時頃どこに行っていつ帰るかはわからない。
 仁斗が出て行ってしばらくの間、こうして仁亜麻の仏壇の前で遺影や写真を眺めながら泣いていたなとふと思い出す。

 ──あの頃よりは、少し大人になれたのかな…。

 常に何をするときも勝気で男勝りな部分が大半で、それでいてどこか儚げな仁亜麻の笑顔。
 彼女の笑顔は、仁斗とよく似ている。
 母と兄のように笑える日が来るのだろうかと、何度思ったことだろうか。
 彼らの背中があまりにも遠すぎて、何度も諦めそうになった。
「俺もいつか母さんたちみたいになるからね。」
 悲観や諦めばかりに目を向けていたが、もうそれを辞める決意が付いた。
 泣くだけ泣いて、後ろ向きな涙はもう流し尽くした。
 現実から目を背けて、逃げるだけ逃げた。
 それからようやく決別して、前を向いて歩きだす決意がついた。
 やっと具体的な目標をもって、前に進むように努力し始めた。
 今は新しい事にも挑戦している。
 気づけば一人になっていた家の中は、ふと気が付くと驚くような静けさだったことに今更気が付く。
 母の写真からリビングの掛け時計に視線を移すと、もうすぐレストランに出向く時間に差し迫っていた。
 かれこれ二時間ほど仁亜麻の仏前に座り込んでいたことに、速斗自身が若干ぎょっとする。
 座布団から立ちあがり、思い切り背伸びをして再度仁亜麻の写真を見上げて。
「…行ってきます!」
 ニコリと笑って、速斗は身支度を始めて家を出た。

 レストランのロッカールームに入ると、既に諒が来ているようだ。
 諒のロッカーが半開きになっている。
 彼は一番早く来るか、一番遅い到着かのどちらかである。
 子ども達の準備が早く済めば一番早く職場に入ってホールの準備をしているし、家のことが片付かなければ比較的ぎりぎりの時間にホールへすり込む。
 諒が一番早く出勤したいという意欲を持っているのは、誰よりあることを皆わかっている。

 ──俺も頑張らないと。

 諒のことを思うと、速斗の気持ちは自然と引き締まるのだった。

 制服に着替えをしませてロッカールームから出ると、うっすらとピアノの音色がホールから響いてきた。
 リスト作曲の『ラ・カンパネラ』である。
 スタッフたちの間では、ピアノに関して諒はかなり多彩でどんな曲でも器用に弾きこなすという認識を持っている。
 この実力で自分の演奏に全く自信を持っていないのが、不思議なレベルだ。

 ホールに入る寸前で、カンパネラの演奏が終了して。
 曲が終わった、入室するにはいいタイミングだ。
 手を伸ばしホールのドアを少し開けた、その瞬間だった。

 ──!?

 全く心の準備をしていなかった音の雨が、嵐のようにホール内から鳴り響きだした。

 ──これを諒君が…!?

 その音の嵐に恐怖心すら覚える。
 ホールのドアを薄く開けると、室内にはピアノを奏でる諒の姿しかない。
 普段の女性的な音色を奏でている諒とはまるで正反対のその演奏に、速斗の息が詰まる。
 圧倒的な演奏技術と迫力、そして諒からにじみ出る狂気のような雰囲気に身動きが取れない。
 呼吸すらも忘れてしまうほどだった。
 曲はそう長いものではなく、演奏が終わったホール内には言いようのないまがまがしい雰囲気がまん延していた。
 何事もなかったかのように諒は立ち上がって、ふとホールの扉の方を振り向くと速斗の姿に驚いてビクリと肩を震わせた。
「気づかなくてごめんね。うるさい曲を弾いてて…。」
 いつもと同じ諒が目の前にいる。
 今まであの激しい曲を弾きこなしていたとは、到底思えない穏やかな口調。
 そのギャップに、速斗はついて行けずにいた。

 

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