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ハートフル

別人たちとの午後

   

 老境に達した孤独な俺。この上、人生に何の未練もないが、風が心地よい春のある日、むしょうに揚げ茄子が食いたくなった。

 そんな狂おしい思いに導かれ、ゾンビのごとく春の野をさまよう。そして出会った不思議な人たち。彼らは妙に俺に優しかった。

 

 
 揚げ茄子が食べたい。夜、ベッドに入ったらむしょうに食べたくてたまらなくなった。

 紫色の皮がカリっとして、断面の肉は焦げ目がきつね色になったジューシーなやつ。最初はあれを、カレーの具にしたら最高だろうと思った。

 赤パプリカの入ったカレーに、熱々の揚げ茄子を乗せる。
 カレーのとろみと、ドライな揚げ茄子のコントラスト。あたかも、陰と陽。
 たおやかな美女に覆いかぶさる、剛直な男子のようではないか。この両者の間に生み出される、春の日差しの如き深い味わい。

 それも良い。

 だが、俺の中で揚げ茄子は、それ一つで十分に俺を幸福にしてくれる。揚げたての茄子におろしショウガと鰹節を添え、醤油を少なめにたらす。天つゆならばなおよかろう。

 その横にはほどよく冷えたビールがある。

 そして、美女の愛撫のごとき春の風。

 ビールの後の酒は何にしようか。

 冷酒も良い。だが、よほどいい酒でないと楽しめないし、この歳になると次の日がつらい。二日酔いごときを恐れて盃を重ねる手が止まるとは、俺も惰弱(だじゃく)になった。

 俺は一人で死んでいくだろう。

 人は俺を不遜であると言った。倨傲(きょごう)だとも言った。

 俺にそんな自覚はなかった。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いで生きてきたらこうなった。正確に言えば、ある時期からそうなったのだ。ずっと若い時分は嫌いなものを随分と我慢してきた。

 きっとその嫌そうな顔が人にも見えていたんだと思う。で、ある時期に我慢するのをやめた。

 そして今、周りには誰もいない。でもいい歳だから、今さら寂しいなどとは感じない。

 もう何週間くらいになるだろう。咳が止まらない。

 60を過ぎて、めっきり疲れやすくなった。それに性欲が無くなって久しい。

 そもそも最後にセックスしたのはいつだ。7年前か。それくらいたつと、セックスというのがまるっきり空想上の行為になってしまう。美女に興奮しないわけではない。ただ、眺めるだけで事足りてしまうのだ。そういうのは寂しい反面、余計な面倒が無くなったと納得している。情けない限りだ。

 そんな俺が今望むのは、揚げ茄子だ。あれを食いながら、ビールが飲みたい。それだけ。

 

-ハートフル


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