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楽興の時とスケルツォ・タランテラ

   2016年7月6日  

 諒の奏でる楽興の時。
 それはあまりにも普段の諒とかけ離れた、荒々しくも妖艶なものだった。
 それはしっかりと聴衆の心を鷲掴みにしていて、諒の後の演奏に和彩は称賛の毒を漏らす。

 諒の作り出した空気を塗り替えるべく、和彩と速斗は聴衆の前へと出向いた。
 緊張し続ける速斗。
 硬い演奏になっている彼を見かねて、演奏中和彩が速斗に眼力を飛ばす。

 

 
 客席からは、諒を迎える拍手がハラハラと湧き始めた。
 その音をしっかり耳に入れながら、諒はゆっくりとピアノの前へと向かった。
 いつもならば演奏前に少しばかりドキドキするのに、今日は拍手を聞いていても全くそれがない。
 拍手すらも他人ごとに思えるほど、諒はある男に気持ちが集中しているのだ。
 ピアノの前までたどり着いて一礼し、顔を上げた先にいたその男。
 それはまぎれもない諒の父である礼だった。
 礼は拍手をすることもなく腕組みをしてサングラス姿のまま、諒を見つめていた。
 言葉のない親子の間には冷たい線が一本繋がっている。
 諒の睨むような鋭い視線が一瞬陰る。
 それを自ら取り繕うように、客席全体に向けてニコリと笑みを向けた。
「本日は演奏の指名を頂き、今からピアノを弾かせて頂けることになりました。小野寺諒と申します。本日弾かせて頂く曲は、ラフマニノフ作曲の楽興の時から第四番を演奏します。激しい曲調ですが、一生懸命演奏しますので宜しくお願い致します。」
 深々と頭を下げ、一呼吸おいて顔をあげて微笑みつつ小さく会釈する。
 ホール内に漂う僅かながらいつもと違う緊張感。
 それが拍手の中で見え隠れしていて、独特の空気の重みを生む。
 諒は何かを完全に無視するように聴衆からピアノに視線を移した。
 ゆっくりとピアノの前まで歩いて行って、椅子に腰かける。
 座ってペダルの位置を確認し、腰を落ち着ける場所を探って鍵盤の上に手を乗せた。
 静寂が訪れたホール内の空気が、諒の腕にまとわりついてくる。
 いつもはしない腕まくりをして、思い切り息を吸い込み、諒の指が駆けだした。

 ラフマニノフ作曲
 楽興の時より第四番
 op.16 No.4

 諒の演奏の代名詞は、見た目通りのしなやかな演奏に女性らしさを思わせる優しい音色だ。
 しかし今はそれが全く感じられない。
 激しくどこか荒々しさすら感じられ、まるで別人のようにすら思えてならない。
 嵐のようなそれに織り交ぜられる、絶妙で美しく妖艶な響き。
 その色気に、聴衆は驚きつつも魅了されていく。
 とても高校を中退した人間の音色ではない。
 桁外れなのだ。
 唖然としてしまっているスタッフたち。
「なんて音だ…。」
 こんな音が出せるなんて聞いていない。
 心治のつぶやきには、全てがこもっていた。
「こんな曲を弾きこなすとは…。」
 カウンターにいたマスターですら、諒の演奏に作業の手を止めた。全員の予想をはるかに超える、諒のピアノ。
 地に染み入る低音。
 天に突き刺さる高音。
 ピアノを聴けば聞くほどに、小野寺諒という男が分からなくなっていく。
 シングルファーザーで、若いうちにとても苦労して今ここで働きつつ育児をしている。
 その肩書とは全く別の次元に、自分たちの知らない諒のもう一つの顔がある。
 そう思わずにはいられない音色だった。

 演奏終了直後は、空気そのものが停止していた。
 拍手すら忘れるほどの、圧倒的な演奏技術。
 いつもの諒とは明らかに違う、もう一人の諒が目の前にいる。
 諒はスッと立ち上がり、深く深く聴衆に頭を下げてうつむき加減にピアノの前から足早に立ち去る。
「ブラボー!」
 歓声を上げて最初に諒に拍手を送ったのは、マスターだった。
「ブラボー!」
 それに続けと客席からは一気に拍手が湧き、称賛の声が上がる。
 それを信じられないといった表情で眺めつつ、スタッフたちが集まるカウンターわきへと差し掛かった。
「素晴らしかった。」
 そう言って諒を出迎えたのは、心治だった。
「いい演奏でしたよ!小野寺君!」
「すごかったよ、諒君!」
 マスターと飛由から温かな声がある。
 それを観るまでの諒の表情が、少しずつ晴れていってしまう。
「諒君のあと、俺たちがもっといい演奏をするから!」
 本当はねぎらいの言葉をかけたかった。
 しかし思いのほか和彩が早くホールに向かって歩き始めたので、速人も急いで和彩の後に続くべく歩き出した。
 若干宣戦布告のような形になったが、致し方ない。
 皆から少し離れた場所で足を止め、バイオリンケースから相方を取り出す和彩。
 諒に唯一声をかけなかった彼女の背からは、何かまがまがしいものを感じる。
「なんて演奏するのよ、あの子ったら。これから弾くってのに、やりにくいったらありゃしない。」
 それは和彩なりの諒への称賛の言葉だった。
 だがそこに棘がないのかと言われれば、棘だらけなのである。
 確かにやりにくい雰囲気ではあるが、まさか和彩が苛立ってしまうほどとは速斗は思いもしなかった。
「さて、この雰囲気を引き継ぎたいところだけど、残念ながら曲調が全く違うからそっくりそのまま乗っかるわけにはいかないわ。このまま諒君の作ったこの雰囲気にのまれて演奏するか、この雰囲気を塗り替えるか。あなたならどうする?」
 和彩の問いかけに、速斗はニッと笑って即答した。
「もちろん、和彩さんと塗り替えます!」
 振り替えって見た速斗の目は、ギラギラとした野心がしっかりと燃えている。
 それを目の当たりにして、和彩はふと笑った。

 ──やっぱりこの子は、あの男の弟なわけね。

 速斗に仁斗の面影をしっかりと垣間見て、若干苦笑しつつ和彩は速斗をつれて聴衆の前へと歩いて行った。

 

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