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歴史・時代

大正恋夢譚 〜夾竹桃〜 <前>

   

否定も肯定もせず、ただ左のまぶたを伏せて、口をつぐむ。
この人に言いたいことがあるとすれば、ただひとつ。
「あの人」を、返せ。

小説版『東京探偵小町』外伝
―逸見リヒト輝彦&紫月蒼馬―

Illustration:Dite

 

 言いたいことがあるなら言うがいい。
 なんの前触れもなく髪を鷲掴みに引っ張られて、頭とのけ反った喉に鋭い痛みが走った。苦悶の呻きが漏れないよう歯を食いしばると、今度は掴まれた髪ごと敷布に頭を押しつけられた。
 床や地面ではないのだから、痛みはない。
 痛みは、寝台がきしむ音と同時に、別の場所にやってきた。
「どうした。言葉もろくに操れぬほど、低級な知能を与えたつもりはない」
「……………………」
「それとも、もう口をきく力もないのか?」
 何を問われても、答えられない。
 返答など、最初から許されてはいない。
 この人は、オレをそういうふうに仕付けてきたのだから。
「リヒト」
 ふいに耳元で名を呼ばれ、全身がこわばった。
 それはオレが覚えている、「あの人」の声音だった。
「いい子だ、リヒト…………」
 懸命に敷布を握り締めていた左手から、少しだけ、力が抜けた。その上に、青白い大きな手が、労わるように覆い被さってくる。
 どう応えたらいいのかわからないでいると、手の甲をそっとなでられ、次いで同じ場所に激痛が走った。見ると、長い指から伸びたナイフのように鋭い爪が、そこに深々と突き立てられていた。
「兄、上」
 腐毒を滴らせる漆黒の爪が、ギリギリと肉に食い込む。
 皮膚を焼く異臭と共にぬるい血があふれ、手の甲の両端を伝い、敷布に赤い染みを作った。
「不興の理由はわかっているな?」
 うなずいて、許しを請う。
 ほんの一瞬でも、「あの人」が戻ってきてくれたのかと思った自分が、どうしようもなく呪わしかった。
「お許し、下さい。兄上」
 背後で低い笑い声が聞こえ、手の甲に刺さっていた爪が、シュッと音を立ててもとの長さに戻った。容赦なく抉られた左手に、耐え難い痛みだけが残される。冷や汗が、流れた。
「クク、痛むだろう。痛みくらい訴えたらどうだ」
 左手が、燃えるように熱い。
 傷口に残った腐毒が、骨肉を爛れさせながら、さらに内部へと浸透していくのがわかる。もしかしたら、このまま手のひらまで染み通って、穴が開いてしまうのかもしれない。そう思った。
「…………ッ」
「フン。貴様の取り柄は、その呆れるほどのしぶとさだけか」
 傷の具合に興味を持ったのだろう、左手をねじり上げられ、またすぐに放り出される。どんなひどい有様になっているのか、自分では見たくなかった。
「服従を誓え、リヒト。全身全霊でな」
「兄…………!」
 返事をしようとして、息が詰まった。
 再びの鈍い衝撃と、胃の腑からこみあげてくる吐き気。
 いつ果てるともない責め苦を呼び水に、何かがオレの内から勝手に引きずり出されていく。絶対に耐え切ろうと思うのに、時折、声があふれ出てしまう。それが嫌でたまらなくて、痛まないほうの手首に噛み付こうとすると、無理に体を反転させられ、右頬をしたたかに打たれた。

 

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