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歴史・時代

東京探偵小町 番外編 〜上海航路〜

   

(父さまと、内山倫太郎さんと、滝本和豪さん)
このなかで、父の朱門だけが、もうこの世にない。
それを考えると、またもや涙がこみあげそうになる。

小説版『東京探偵小町』番外編
―永原時枝―

Illustration:Dite

 

 帰国を翌日に控えたその晩、時枝はなかなか寝付けなかった。横になってみたものの、どうしても眠ることができず、もう何度目かわからない寝返りを打つ。
(父さま…………)
 世界で一番だと胸を張って言える、それほどに愛していた父・永原朱門が連続殺人犯の凶刃に倒れてから、早くもひと月が経とうとしていた。
 明日、時枝は八年もの歳月を過ごした上海に別れを告げて、一人で横濱行きの船に乗る。朱門を失った衝撃と痛手からようやく立ち直った母や、まだ幼い弟妹を残して単身帰国する――それを決めるまで、時枝も悩みに悩んだ。すべての準備が整った今となっても、まだどこか心が揺れている。

 日本へ。
 もう父のいない日本へ。

 時枝は、亡き父が残した探偵事務所を引き継ぎ、叶うことなら、将来はその名跡も継ぎたいと思っていた。『父のような立派な探偵に、誰もが認める女探偵になりたい』というのが、時枝の幼い頃からの夢だったのである。
 朱門の配慮により海を隔てて暮らすようになり、その活躍を遠く上海で聞くようになってから、「夢」は時枝のなかで日増しに大きくなっていった。朱門への手紙のなかで帰国を願い出たことも、一度や二度ではない。だが、そのたびに朱門はまだ早いと許さず、時枝は歯がゆい思いをしてきたのだった。
「でも、父さまのいない日本なんて」
 時枝は寝台の脇に置かれた小卓に手を伸ばし、つい先ほどまで飽かず眺めていた写真を再び手に取った。二年くらい前に撮ったものだろうか、そこには、父とその弟子たちが写っていた。
(父さまと、内山倫太郎さんと、滝本和豪さん)
 写真を眺めながら、幾度、同じ言葉を繰り返しただろう。
 このなかで、父の朱門だけが、もうこの世にない。
 それを考えると、またもや涙がこみあげそうになる。
 大声で泣きたい、もう泣いてはいけない、そんな思いがせめぎあうなか、時枝の耳はかすかな足音をとらえた。そこから一拍遅れて、部屋の扉がノックもなく開かれる。
「……おねえちゃま……………………」
 時枝は急いで悲しみを追いやると、小卓に置かれた洋灯にあかりをともし、できるだけ明るい口調で、扉の隙間から顔をのぞかせている妹に声をかけた。
「雪ちゃんだと思った。どうしたの?」
「あのね、ゆきね」
 雪枝の言葉はそこで止まり、あとは泣き出す寸前の表情で、時枝を見上げる。幼い心に、父の死はまだ理解しきれなくとも、母の憔悴はわかるのだろう。眠れず、けれど母の寝室に飛び込むのは憚られて、大好きな姉のもとを訪れたに違いない。時枝は写真を小卓に置くと、「おいで」と手を差し伸べた。

 

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