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寛容な妻 寛容な会社

   2016年8月26日  

三十六歳になる鹿嶋 修一は、うだつの上がらない仕事ぶりで給料も安く、さらに言えば志も低かったが、会社では叱られることも冷遇されることもなかった。

その上彼の妻は美しく家事がうまく、まったく出世の目がなく貯金もない鹿嶋の全てを容認していた。故に鹿嶋は、まったくストレスなく日々を送ることができた。

しかし、ある日、鹿嶋は、高校からの先輩で人事課長補佐でもある黒川に呼び出され、まったく社に貢献していない上にバイトである鹿嶋を主任とする計画が持ち上がっていると聞かされる。鹿嶋は当初気にしなかったが、言われてみれば妙な話であり、さらに、泥酔が原因で二日間欠勤した上三日目も遅刻という失態をやらかしたにも関わらず、上司からの叱責がまったくないという状況に直面し、異様さを実感することになる。

妻も妻で、まったく十分な稼ぎがなく向上心もない上、しばしば飲み歩いている鹿嶋に対して、ぼやきの一つさえ漏らさないという態度を取っていた。

そんなある日、鹿嶋は黒川に再び呼び出された。今まで鹿嶋が足を踏み入れたこともないような「夜の高級店」の中で、黒川は、鹿嶋の妻に対して探りを入れるための「仕掛け」を提示するのだった……

 

「それじゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい、気をつけてね、あなた」
 今年で三十六歳になる鹿嶋 修一は、いつものように妻の美しい微笑みに見送られ職場に向かう。
 通勤にマイカーは使わない。
 もっぱら徒歩と電車で、片道一時間はかかる道のりを行き来している。もっとも、免許も持っていないし、車を買えるだけの蓄えもない。
 鹿嶋は、社会人になってから十八年、人を使うような役職についたこともなかったし、一戦力として評価されたような記憶もない。典型的な「使えない」社員と囁かれつつ、日々を消化するだけというのが目下の立ち位置なのである。
 だから、新入社員よりも早く出社して、雑用はこなすよう心がけている。
「おはようございまーす」
 さして広くもないオフィスに一番乗りし、雑用とお茶くみをほとんど済ませたぐらいのタイミングで、若手社員たちが続々と入ってくる。
 寮住まいということもあって、彼らの生活リズムはほぼ同じである。
 もっとも、中には起き抜けで寝グセも整っていないような者もいるが、鹿嶋は、先輩として厳しく注意をするわけでもない。
 組織の規律を気にするほど大層な身分にいるわけでもないし、第一、面倒という思いが先に立つ。
 将来の夢といったような若々しいフレーズではなく、定年までのんびりできることに魅力を感じるように、鹿嶋はなっていた。
 社会に出た時は一旗揚げようという志もないではなかったが、内定取り消しに始まり、強引な配置転換や倒産といった突発的な事態を何度も味わい、その度にキャリアがゼロになってしまうことを経験したために、コツコツとした努力や頑張りに価値を見い出せなくなった。
 スポーツ選手の努力が報われることがあるのも、長期にわたって大枠としてのルールや規則が変わらないからじゃないかと思っているぐらいである。
「ちわっすっ。鹿嶋先輩っ。今日も元気そうですね!」
「こんにちは。鹿嶋さん、昨日のサッカー見ました? もう本当に熱かったですよね。由美なんか、終わった瞬間に泣き出しちゃったぐらいで」
 しかし、そんな典型的な「無気力社員」である鹿嶋の人気は極めて高かった。
 特に愛想良くしているわけでもないのに、後輩の平社員たちは競って鹿嶋に話しかけにくるし、先輩や上司からも遊びや飲みに誘われ続けている。
 もちろん、まったく結果を出していない、非正規雇用かつ中途採用組の鹿嶋に、そうそう遊びに使える金があるわけはないのだが、そうなると、「俺たちが奢る」と、先輩たちは必ず言ってくれるのだ。
 単なる社交辞令でないことは、誘われれる回数と彼らの態度からも明らかだった。
 そう、鹿嶋は社内の人間に、極めて好かれていた。根拠も何も分からないまま、良い言葉が送られ、良い待遇が回ってくる。
 さすがに出世するかどうかの査定は仕事を遂行するための企業とあってシビアで、入社して五年、鹿嶋には一切の役職付与や表彰といった話はなかったが、責任なく金が貰え、しかも評判や遊興に何の支障も出ないのだから、鹿嶋としても上を目指そうという気持ちにはならない。
 ただ、だらだらとバイトするだけの十八年を過ごしてきたというのはかなり外聞が悪いわけで、子供ができたなら、肩書きだけでも正社員ということでやっていきたいという気持ちはある。
 何しろ妻は、どんな映画の主演を張っていてもおかしくないような美貌の持ち主であるから、きっと子供も容姿に優れているはずだ。
 そんな見目麗しい彼らと少しでも釣りあえるような立場になりたいという見栄は、若干持っていないわけではない。
 ただ、だから仕事に精励するほどの動機でもなく、冷房の効いたオフィスで、鹿嶋は巧みに「仕事をしているフリ」をして、今日も一日をやり過ごそうと考えていた。
 幸いというべきか、机を並べる同僚たちの手際や集中力は、会社の規模や業績からは有り得ないほどに素晴らしく、鹿嶋がまるで仕事をしなくても問題なく書類は整理されていく。
「なあ、ちょっと出られないか? 少し話があってね……」
 午後六時、定時から一時間が過ぎ、もう一時間ぐらい粘って残業代を稼ごうかなと鹿嶋が思っていたところに、人事課課長補佐の黒川が入ってきた。
 黒川は既に帰り支度をまとめているところだった。
「ええ、いいですよ。今日はちょうど上がろうかって思っていたところですし」
「だったら都合がいい。ちょっと飲みに行こうか」
「了解です」
 高校の先輩でもある黒川と飲むのは、鹿嶋にとってごく日常的なことだった。
 二つ返事で話を受けると、行きつけの安酒場へ足を伸ばしたのだった。

 

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