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ノンジャンル

寛容な妻 寛容な会社

   2016年8月26日  

「お帰りなさい、あなた」
 玄関のドアを開けると、妻の姿が見えた。
 玄関から廊下にかけての掃除をしているように見えるが、鹿嶋にとっては、待ち構えていたようにしか思えない。
「き、君は、何者だ。いや、『何』だ?」
 鹿嶋の声は、自分でも分かるほどに震え切っていた。
「き、君のハーブティを飲んだ人間が、妙な挙動をしているんだ。酒浸りで無気力な俺を注意さえしない上司に、失礼な客をたしなめるどころか、感情さえ害さない従業員。いや、そ、そもそも、君自体が妙なんだ。何で君はこんな体たらくの俺に不満すら抱かない? 店に通って何してるか分からないのに、疑問すら抱かないのか? も、もう、俺は限界なんだよ。一体どうなってるのか分からないのが、辛いんだよ」
 鹿嶋の詰問は、まさしく全ての本音を声として出し切るものだった。
 しかし彼の妻は、まったく笑顔を崩さず、のんびりとした態度を変えることもなかった。
 作っているのではなく、変えるだけの要素がそもそもないという感じである。
「随分かかりましたね、気付くのに」
 鹿嶋の息が落ち着くのを待ってから、妻はそろりと声を発した。 どこまでも柔和で、しかし人としての感情がまるで見えない響きである。
 機械音声で完璧に理想的な声を生成したら、こうした声になるだろうか。
「あなたがおっしゃるように、いくつかの手段でもって、私は、あなたの周囲に対して『調整』を施しました。ほんのちょっとしたものですからご心配なく。ですが、あなたは随分暮らしやすくなったのでは?」
「ど、どうして、そのような……」
「うふふ、面白いことをおっしゃいますのね。それがあなたの望みだったからですよ。『三千度回り』の際に念じられたように、私はあなたが理想とする女性としてこの世に加わり、楽で安全でのんびりできる人生をお贈りしたというだけの、簡単なことです。他に一切の他意はありません。本当に嬉しかったんですよ。地元の人すら半ば忘れているような『条件』を、あなたは、学校で勉強することをやめても、運動競技をやめてもひたすらやり続けてくれた。だから私も決めたんですよ。あなたが生きている間は、あなたの理想とする存在であり、理想とする環境を作ろうと。せいぜい、たった百年ほどのこと、私にとってはわずかな時間にしか過ぎませんから」
「こ、ここ、好意はありがたいと思う。しかし、俺の願望に沿わせるがために、沢山の人の気質までをも作り変えてしまうのは……」
 にじり寄ってくるような迫力に気圧されつつも鹿嶋は反論を試みたが、「妻」は、首を軽く傾げただけだった。
「何をご懸念されているのかは分かりませんが、私はあなただけと決めております。あなたが何と言おうと、あなたが命ある限り」
「ぬっ、ぬうう、そ、そうだっ、お、俺は誠実な夫ではないっ! 見ただろう、あのシャツやマッチ類の数々をっ。俺はそういう男なんだっ。何で、お前は平気なんだよっ」
「うふふ、私にだって感情はありますわ。愛する人が他の女性と親しくしていたら、嫉妬もしますし、幻滅だってするかも分かりません。何をお喋りになっているかも分からないとなれば、不安にもなります。……本当に、私以外の誰かといたのなら、ですけどね」
 艶然と微笑む「妻」の表情に一瞬、見とれかけた鹿嶋の両腕に絡みつくものがあった。
 それは、「オールトゥギャザー」にいた二人の女の子だったが、生者とは言えなかった。
「妻」の体から出ているキラキラとした糸が二人の体の至るところに突き刺さっていて、ひどくリアルな操り人形の様相を呈していたからである。
「妻」が右手の指を動かすと、「彼女たち」は鹿嶋により密着し、左手を動かすと、「彼女たち」はさらに強く腕を絡ませてきた。そして、「妻」が指を鳴らすと、『二人』は店でよくするような挨拶をしてきた。
「ひっ、ひいいいいっ!」
「よくできているでしょう。あなたのお友達、黒川さんの記憶に存在する女の子をベースに形成したのよ。自在に動かせるし喋らせられる、感覚も共有できるから、私としてはあなたと喋っているのと変わらないわ。会社の方も同じ。だから私は寂しくなることもないの。黒川さんももう少しで『調整』が完了するから安心して下さいね」
「妻」が指を鳴らすと、鹿嶋に絡みついていた「二人」が素早く動き、鹿嶋の顔に手をかけた。
 物凄い力で抵抗しようもなく、鹿嶋は口を開かされてしまった。
 そこに「妻」は、小さな水筒を懐から取り出し、ためらいなく傾けていく。
「私の善意はご理解頂いたとして、『調整』しましょうね。余計な情報が頭に残っていたら、あなたは私を理想の妻として認識できなくなるかも知れませんから。大丈夫、いつもしていることです……」
 口の中に入ってきた液体は、普段飲んでいるものよりも濃厚な、飲み慣れたハーブティだった。
 自分の意思とは関係なく喉がごくりごくりとうねるたびに、鹿嶋の頭からあらゆるマイナスの感情が消え失せていった。

 

≪おわり≫

 

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