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寛容な妻 寛容な会社

   2016年8月26日  

「それで、どうなんでしょう、景気の方は?」
 勢い全開の学生やフリーターたちが放つ喧騒混じりの笑い声を聞きながら、鹿嶋は少し声を落としてたずねた。
 誰も話を聞いていそうにない分、密談には適した場所だと言えるだろうが、それでも会社の内情を公の場で話すのは抵抗を感じなくもない。
「別に大したことねえよ。まあ、少し減っちゃいるが、お前の職場が無くなるということは当面ないだろうよ」
「そうですか、良かった。居心地がいいですからね、今の場所は」
 鹿嶋は演技ではなく本心で安堵のため息をついてみせた。
「少しは俺の心配もしてくれよ。所帯持って大分経つんだから」
 と、ぼやいてみせる黒川も、本気で怒ったという感じではない。実際彼も鹿嶋同様、立身出世よりのんびりとした暮らしを楽しみたい性格であり、人を押しのけて仕事をするタイプでもない。
 そのあたりのことは、部活漬けの高校時代をともに過ごした間柄として肌で良く分かっている。
「居心地がいい、ね。まあ、確かにそうなんだろうけどな……」
 ウェイターがビールの注がれたジョッキを置きにきたのを横目で見るような形で、黒川が誰に言うでもなく呟いた。
「先輩、どうしたんですか? ぼーっとして」
「いや、実は今日、部長に呼ばれてな。まだ内々の話だがって前置きで、人事の話をされたんだよ。リストラじゃなく、むしろその反対、平の何人かに役をつけてやろうって話が出てな」
「ふーん……、そりゃあ結構な話ですね。俺には、また歳下の上司ができるってだけのことです」
 せっかくの酒の席で、親しくもない同僚の出世話を楽しめるほど、鹿嶋は大人ではなかった。
 しかし、軽く流そうとした鹿嶋に、黒川は表情を引き締め、「いや」と、相槌を挟んで続けた。
「大いに関係のある話なんだよ。何故なら、昇格の第一候補が、鹿嶋、お前だって話だったんだ。人事部長の案では、今のままの職域、身分のままで主任格の肩書きを付けようってことだった」
「なっ!? そ、そりゃ本当ですかっ!」
「ああ。本当だ。部長の意向がそのまま通れば、お前さんは何もせず、何の変化も強いられず、月一万円の役職手当てと社会的に受けのいい立場を手に入れることができる」
 黒川の表情は、楽しい飲みの場にはそぐわないほど真剣だったが、だからこそその言葉には信頼が持てた。
 そして、黒川は悪い冗談を一切言わないことが顧問に受け、部長に抜擢されていたぐらいの男である。
 つまり、彼の言っていることは真実だということになる。
 (マ、マジかっ、俺もついに主任に……!)
 鹿嶋は、ただでさえ高まっているテンションが頂点近くにまで達したのを感じた。
 かねてから欲しがっていた社会的な評価が、何の努力もせずに手に入ったのである。
 達成感はともかく、嬉しくないはずがない。
 しかし、黒川は間髪入れず、満面の笑みが凍りつくようなことを言った。
「だが、俺は部長の案を食い止めた。少なくとも、もう少し決定は保留してくれと言っておいたよ」
「なな、何てことをっ! 俺、何かしましたかっ!? 何かしたとしても納得しませんけどねっ!」
「ああ、お前は何もしていない。だから変なんだよ。何の実績も上げていないバイトを、いきなり主任に上げるなど、普通は有り得ない。最低でも正社員にしてからの話だろう。でないと、新卒組の若い連中の反発が抑えられん。何しろ、幹部候補待遇ってことで入社したはいいが、ポストが開かず五年近くも平のままって奴もいるんだ。だけど、当然そのあたりの反発も部長たちは分かっているはずでな、だからこそ妙なんだ。主任ってことで色んな仕事をやらせて、失敗させたところで会社を追い出す算段でもあるんじゃないか。不祥事の末の自己都合ってんなら、会社としては面倒がないからな」
「そんな……」
 黒川の真剣な口調と表情は、鹿嶋にほどよく回ってきた酒の酔いをかき消してしまうほどに、不穏なものを含んでいた。
「あるいは、あえて社内に不和を生じさせ、会社そのものを割っちまうような策略が動いているのかも知れん。ま、推測だけじゃ仕方ないんで俺の方でも調べてみるが、気を付けろよ。根拠のないうまい話ってのは、大概、ひた隠しにされたべつの理由があるものだからな。今の生活が気に入ってるなら、極力動かない方が身の為だぜ」
 黒川は、かつてのキャプテンらしい口ぶりで、鹿嶋に向かってびしりと言葉を突きつけた。
 

 

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