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寛容な妻 寛容な会社

   2016年8月26日  

(こ、これは一体、どういうことだ……?)
 ダラダラとした仕事を全面的に肯定している鹿嶋でも、さすがにどこか変だと思える態度だった。
 しかし、変に混ぜ返して火に油を注ぐようなことだけは避けたい。そんなことを考えていると課長は、思い出したように呟いた。
「奥方から頂いたハーブティ、おいしかったな」
「じゃ、じゃあ今度持っていきましょうか? 多分ピッチャーでもできると思うんですが」
 鹿嶋の言葉に、オフィス内からはどよめきと歓声が巻き起こった。
 どうやら、遅刻のことなど誰も気にしていないようである。
 そうこうしている間に午後五時のチャイムが鳴り、反射的に鹿嶋は立ち上がり、はっとなった。
 長年の習慣からくる行動だったが、盛大に遅刻した身としては当然、適切な行動だったとは思えない。
 しかし、上司も同僚も誰一人として見咎めるような反応を見せない。
 それをいいことにダッシュで会社を飛び出し、ほっと胸をなで下ろした鹿嶋だったが、さすがに妙だなという印象を受けた。
 もっとも、その程度の小さな違和感は、家に帰って妻の顔を見られるという充足にたやすくかき消されてしまったが。
「お帰りなさい。今日もお疲れ様でした」
 玄関のドアを開けると、待ち構えていたように、妻は出てきて深々と頭を下げてきた。
 この所作は結婚した当初からまったく変わらず、ただの一度も行われなかったことはない。
 まったく邪気を感じない包容力溢れる笑みといい、一日の疲れが完全に吹き飛ぶ様々なものを、彼女は用意してくれている。
「ああ、ただいま。今日はとにかく暑かったな。ちょっと食が落ちているようでな……」
「はい。梅のお茶漬けを用意してありますよ。煎茶を冷やして作ったから、喉越しもいいんじゃないかしら」
 妻は、鹿嶋が今一番食べたかったメニューを口にしてきた。
 彼女が作る料理は、単に鹿嶋が好物というだけでなく、その時食べたいものに限られている。
 料理自体の腕も物凄く優れているため、鹿嶋は彼女と暮らし出してから、家の中や持たされた弁当を食べて、まずいという印象を味わったことはない。
 職場環境と併せて考えると、実に恵まれていると思える。
(あれ? 俺ってお茶漬け食べるタイプの人間だっけか)
 妻が茶碗に米と煎茶を満たしてテーブルに持ってきた際、そんな疑問がぼんやりと頭をかすめた。
 しかし、お茶漬けの絶品さに比べればまったく取るに足りないことだった。
 彼女が出してくれる料理はどれも素晴らしいが、特にお茶や果実といったものに関しては、他に類を見ないほど秀でている。
 銘柄に関しては聞いたことはないが、超一流だということだけは間違いないはずだ。
「さあ、お召し上がりになって下さいな」
「うん。頂きます」
 二人分の料理が揃ったところで食事が始まった。
 もっともメインがお茶漬けというだけあって、数分であらかた平らげてしまった。鹿嶋は、空になった茶碗をどけて、改めて妻の顔を見やった。
 食事を済ませてもすぐに席を立ったりせず、しばらく談笑するのが、鹿嶋たちの常になっていた。だから、この日もいつも通り話は弾んだ。
「お……っと、メールか」
 話し始めてから十分ほど経ったところで、鹿嶋のズボンのポケットに入っていた携帯が規則的に振動した。
 パターンからして黒川だと分かる。
 何事かと画面を見てみると、「話があるから、ちょっと出て来れないか」という内容だった。
 シンプルな文面だが、軽く流せないだけの真剣さも伝わってくる。
 鹿嶋は軽くため息をついて妻に話しかけた。
「ああ、ちょっと、すまん。黒川先輩からメールが来た。会えないかってな」
「あらあら、デートですか?」
 妻は驚くでもなく不満気な態度を示すでもなく、心底愉快そうに笑った。
「いや、何やら話がしたいらしい。もしかして、女性関係かも知れないな。俺はこんなに素晴らしい奥さんに恵まれたけど、先輩は未だに独身だからな。ははは……、駅前の『オールトゥギャザー』で待っているってさ」
「あらあら、お上手ですこと。でもそうした話術は、黒川さんとお会いになるまで取っておいた方がいいかも知れませんわね。お金は、玄関に置いてありますからね」
 鹿嶋は小さく声を上げた。
 何でも見通しているかのような妻の気配りにより、今日の飲み代に不自由しないことはもちろん、奢って貰った分を少しでも返すことができるかも知れなかった。
「ありがとう。じゃあ、行ってくるよ」
 鹿嶋は妻に感謝の言葉を述べると、再び家を飛び出していった。

 

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