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寛容な妻 寛容な会社

   2016年8月26日  

「ま、まさかこういう店だったとは……」
「オールトゥギャザー」の最奥部にあるVIPルームで、鹿嶋はかすれ声を発していた。
 口の中はカラカラで、意識せずとも膝がガクガクと動いてしまう。緊張のためである。
 この店は普段行く安酒場とはまったく種類が異なっていた。
 同じように酒と食事が出る店ではあるが、一歩足を踏み入れるなり威勢の良いかけ声の代わりにびしりと高級スーツを着込んだ黒服たちがエスコートしてくるようなところであり、分かりやすいタッチパネルやメニュー表の代わりに、水晶であつらえたと思われる灰皿や大理石造りのテーブルが備わっているような店なのである。
 もちろん、調度品も、まったく知識がない鹿嶋が一目見て分かるほど明らかに高級であり、どれだけ目を凝らしても汚れの一つも確認することすらできない。
「済まんな。もちろん金は俺が持つから、余計な心配はしなくていい」
 一方の黒川は至って落ち着いたものだった。
 普段の勤務では決して身に着けない黒のワイシャツと、同じく黒色の高級スーツの組み合わせは、十数年前から知る鹿嶋の記憶にもない迫力と格好良さを滲み出させていた。
 普段付き合っているとまったく意識しないが、三十代にして課長補佐という要職を任されるだけあり、給料はかなり高く、その使い方も十分に心得ているのかも知れない。
「さて、本題の前に、軽く何か食うか?」
 黒川は、鹿嶋が見たこともない高級そうなラベルが貼られた酒を自らのグラスに注ぎながら、にこやかに問いかけてきた。
「い、いえ、もう済ませてきましたから。お茶漬けを、そう、梅茶漬けを食べてしました」
「ふうむ、梅か。夏の疲労回復にはもってこいだな。クエン酸が豊富だからな。そうそう、クエン酸と言えば覚えているか? 高校の時のことだが」
 黒川は、少し身を乗り出すようにして言葉を継いだ。
「部活がキツくて、体がきつかった時、俺はクエン酸を取るように勧めたよな。レモンやサプリメントでもいいってことでな。でもお前は採ろうとしなかった。独特の酸味がどうにも嫌だって言ってな。何度言っても結論は変わらなかった。まあ、あの時は俺もかなり無理な要求を出しちまったが、いつの間に食べられるようになったんだ? 特に梅茶漬けってなら、梅干しの風味が直接的に効いてくるだろう?」
「いやあ、ちょっと記憶が確かじゃないですね。そんな事言ってましたっけ? 先輩。元々梅関係は平気だったような気もするんですが」
「おい、本当に覚えてねえのかよ。五十回は言ったはずなんだが……。まあ、いい。本題の方に移ろう」
 そう言うと黒川は、懐からメモ書きのような紙片を取り出した。 貯蓄や収入、マイカーや持ち家といった、今の鹿嶋にとってはありがたくない響きの単語が並んでいる。

 

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