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歴史・時代

東京探偵小町 第零話「小夜時雨」 <前>

   

青年は少し驚いたような顔をして、朱門の名をくちびるに乗せた。
「こんなところで有名人にお会いするとは……今後のさらなる御活躍をお祈りしますよ、名探偵。では、失礼」

小説版『東京探偵小町
第零部―邂逅編― 第零話「小夜時雨」

Illustration:Dite

 

 昼下がりを少し過ぎた頃から、秋の日は早くも傾きはじめた。
 紗のカーテンを通して射し込む黄昏めいた光が、居間に漂う物憂げな空気を、さらに色濃いものに変えていく。練習なのか、それとも単なる慰みなのか――思いつくままに古今の小品を奏でていた御祇島は、鍵盤に遊ぶ指を止めて、軽く髪をかき上げた。
 それから絹のシャツの胸ポケットを探り、そこに適当に放り込んでおいた催眠鎮静剤を、まるで錠菓か何かのように噛み砕く。その音を聞きつけて、居間の隅にうずくまっていたロシアンブルーの雄猫が、静かに身を起こした。
「わかっているよ、ニュアージュ」
 足元に擦り寄ってきた愛猫の背をなで、御祇島は鍵盤の蓋を閉めて立ち上がった。その足首に長い銀色の尾を絡ませて、ニュアージュがしきりに主人を諌める。
 近年は「御祇島時雨」と名乗っている彼の主人は、もう何日もまともな食事をしていなかった。時折、思い出したように赤葡萄酒を口にするだけで、薬ばかり飲んでいる。そのくせ、眠りはひどく浅いのだ。痩せ衰える一方の主人を、その愛猫であり、忠実な下僕でもあるニュアージュが気遣うのは当然だった。
「わかっているが……もうしばらくは、これでいい」
 いつにもまして気だるげな御祇島を見上げて、ニュアージュが叱るように、たしなめるように細い鳴き声を上げる。御祇島は自嘲じみた笑みで応えると、細身の黒い上着に袖を通し、英国製の中山帽と樫のステッキを手に取った。
「少し出掛けてくる。二年級にピアノの上手い生徒がいるのだが、あいにく、彼女向きのピースがなくてね。何か良いものが見つかったら、進呈したいと思っているのだが」
 それを聞いて、ニュアージュがもう一度、声を上げる。
 すると御祇島は珍しく声を立てて笑い、かぶりを振った。
「それが残念なことに、彼女はわたしが嫌いらしい。授業中にほんの少しそばに寄っただけでも、まるで凍りついたように固くなってしまうのだよ」
 とあるカトリック系女学院で教鞭を取る御祇島は、その恐ろしいほど蟲惑的な美貌で、生徒はおろか、教師やシスター連中まで虜にしていた。誰が言い出したのか、女学院には『御祇島シック』という言葉すらあり、その熱病を免れた例は、今のところひとつしかない。
「たしかに、大人しくて愛らしい少女ではあるが、ああも苦手意識をあらわにされてはね……では、行ってくる」
 愛猫に留守を任せると、御祇島はまるでおとぎ話に出てくるような、小さな平屋建ての洋館を後にした。
 近隣から「東の異人館」と呼ばれているその邸は、もとはとある豪商の妾宅だったが、ゆえあって長く空き家になっていた。そこに、御祇島が一匹の銀猫を伴って住まうようになってから数年。御祇島が異国人の血を引いているせいか、いつしかその洋館は、「東の異人館」という異名を取るようになっていた。
「…………ここも、いつまでもつのか」
 御祇島は小さく呟くと、帽子を目深に被り、刻一刻と暮れ行く路地を足早に歩きはじめた。

 

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