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歴史・時代

大正恋夢譚 〜花水木〜 <前>

   

『成人は難しいでしょう』

医者の言葉が本当なら。
ボクはきっと――大人に、なれない。

小説版『東京探偵小町』外伝
―紫月蒼馬&逸見兄弟―

Illustration:Dite

 

 あれは、いくつのときだっただろう。
 あの日、あの時、ふすま越しに聞こえてきた医者の言葉。
 それが、いつもボクを苦しめている。

 『せいじんは、むずかしいでしょう』

 そのときは、何が難しいのか、よくわからなった。
 「せいじん」っていう言葉の意味を知らなかったから。
 ただ……その後に続いた母さまたちのすすり泣きみたいな声で、あまり良いことじゃないんだろうとは思った。その時はボクもまだ小さかったし、具合を悪くして臥せっている最中だったから、医者の言葉なんかすぐに忘れちゃったけど。
 ボクが「せいじん」の意味を知ったのは、尋常小学校に上がってからだった。入学祝いに立派な辞書を買ってもらって、初めて引いた言葉がそれだった。

 「せいじん」は、漢字で書くと「成人」だった。
 「成人」は、二十歳になること。大人になること。

 『成人は難しいでしょう』

 医者の言葉が本当なら。
 ボクはきっと――大人に、なれない。

 語学塾からの帰り道に発作で倒れて、次に気がついたとき。
 最初にボクの目に入ってきたのは、病室の白い天井だった。首を動かしてあたりを見回してみるけど、自分が寝ている固い寝台と水差しの載った小机、クリイム色のカーテン以外に何もない。あとは部屋中に、消毒液の匂いが満ちているだけだった。
(やだな……また、やっちゃったんだ)
 小さい頃から見慣れている風景に、ため息をつく。
 絵を描くための白い紙と、病院の白い天井。思えば物心ついてからずっと、ボクはその二つばかりを見つめ続けてきたような気がする。
(たしか、赤門の近くまで送ってもらったんだよね。じゃあ、帝大の附属医院かな)
 時計がないから正確な時間はわからないけど、もうずいぶん明るいし、廊下から看護婦たちの行き来する気配が伝わってくるから、病院で一晩を過ごしたことだけは良くわかった。この分だと、あと一時間もしないうちに、おとみさんがやってくるだろう。長居なんかしたくないのに、きっといつも通り、たくさんの荷物と差し入れを抱えて。
(今度はどれくらい、入院することになるんだろ……長いと困るな。挿絵の締切だってあるのに)
 そんなことをぼんやりと考えていたら、扉の曇り硝子の窓に、人影が映った。やがてノックの音が聞こえて、主治医の湧井先生に代わってたまにボクを診てくれる尾崎先生と、もう一人、初めて見る白衣の人が病室に入ってきた。

 

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