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歴史・時代

大正恋夢譚 〜花水木〜 <中>

   

たったひとこと、あの日のお礼が言いたいだけなのに。
別にすごく遠くにいるわけでもないのに、どうしてその機会が、なかなか巡ってこないんだろう。

小説版『東京探偵小町』外伝
―紫月蒼馬&逸見兄弟―

Illustration:Dite

 

 入院してるあいだに、一度でも会いに来てくれたら。
 そう思って、入院している間中ずっと、待つともなしに待ってたけど――逸見先輩がボクの前に現れることは、結局一度もなかった。そのかわり、というのも変だけど、お盆のちょっと前に、また逸見先生がやってきた。そのときは尾崎先生も湧井先生もいなくて、逸見先生一人だけだった。
「何をしている?」
 それはお昼の後の、安静時間のときだった。
 本当は寝台に収まっていなくちゃいけないんだけど、退屈だし、ちょうどおとみさんも買物に出ていていなかったから、ボクは窓辺に椅子を置いて、そこから見える庭木をスケッチしていた。そこに、なんの前触れもなく背後から突然逸見先生の声が聞こえてきたから、ボクはびっくりして、画帳を取り落としそうになった。
「あ……逸見、先生」
「たしか十五時までは、安静時間だったはずだが」
「す、すみません」
「すぐに寝台に戻りたまえ」
「はい」
 慌てて画帳を小机に置き、薄い上掛けにもぐりこむ。
 すると逸見先生が、ボクの額にピタリと手を当てた。
 それがあんまり冷たくて、ボクは思わず、肩を震わせてしまった。
「どうした?」
「い、いえ。何も」
「熱はないようだが、用心したまえ」
 そう言われたあと急に胸が痛くなって、ボクは逸見先生に気づかれないよう、上掛けをきつく握り締めた。安静時間に絵を描いていて具合を悪くした、なんてことが湧井先生に知れたら、きっとこっぴどく叱られる。
「そら。無理をするからだ」
 痛いのを必死でこらえていたつもりなのに、顔に出ちゃったんだろうか。逸見先生は呆れるでも叱るでもなく、たしなめるように言うと、小さな子供に「痛くないよ」っておまじないをするみたいに、ボクの胸に手を置いた。

「…………!!」
 一瞬、体がすうっと冷えるような感じがした。
 急に秋の冷たい風に当たったような、そんな感じ。
 そのあと、全身から力が抜けて、急に眠くなった。ヘンだなと思ったけど、もう目を開けていられない。たまに貧血で眩暈を起こすことがあるけど、そのときの感覚に良く似ていた。

「安静時間と消灯時間。早く退院したいのなら、この二つだけは守ることだ」
 どうしてかわからないけど、うまく声が出ない。
 なんとかうなずいてみせると、逸見先生は薄く笑ってボクの頭をなでた。

 

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