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歴史・時代

大正恋夢譚 〜彼岸花〜 <前>

   

子犬だったのが幸いしたのか、リヒトは左眼だけの生活に、かなり早く順応した。最初は失った右眼のあたりを気にしていたようだが、今はもうそんな素振りも見せない。

小説版『東京探偵小町』外伝
―逸見晃彦/逸見晃彦―

Illustration:Dite

 

「こいつ、うちで飼うの?! うわあ、本当?! 名前は?」
「名前……そういえば、聞いていなかったな。訓練所では、『五号』と呼んでいたようだが」
「番号じゃ、あんまりだなあ。ねえ、兄さん、何か名前をつけてやってもいい?」
「ああ、構わないが」
「じゃあね、じゃあ、えーと…………リヒト!」
「リヒト?」
「うん、リヒト。兄さんが晃彦で、俺が輝彦だろ。どっちの名前にも『光』って字が入ってるからさ、まずはオレたちの弟ってことで光。それで、ジャーマン・シェパードだから、光のドイツ語読みで『リヒト』。変かなあ」
「いや、賢そうな名だ。良かったな、リヒト」
「よーし、決まり! 今日からおまえは『リヒト』だぞ。俺たちの弟だからな!」

 我々が「軍犬」の存在を知ったのは、五年前の青島戦だった。
 それまでの我々には、『犬を訓練して軍事目的に使う』という発想そのものがなかった。犬の使い道があるとすれば、野山で狩猟の手伝いをさせるか、せいぜい一家の番犬として飼っておく程度のものだったのである。
 独逸租借地の青島を攻略し、その戦利品として独逸軍の使役していたジャーマン・シェパードを得たとき、我々はその能力の高さに少なからず驚かされた。独逸軍のシェパードは、伝令や警戒、探索といった軍事行動に、我々の予想をはるかに上回る優れた働きを見せたのである。
 それに感じ入った石田中佐の命により、帝国陸軍でも、早速軍犬の研究が始まった。最初は在来種の起用を計画していたが、古くから狩猟犬として用いられてきた紀州犬や秋田犬でさえも、軍務にはほとんど役に立たなかった。荷駄を運ぶ程度ならやってのけるが、それ以上の作業が、どうしても身につかないのである。同じ犬にも、向き不向きがあるということだった。
 すぐに「より軍務に向く犬種」を見出すための調査選別が始まり、やがてシェパード、ドーベルマン、エーデルテリアの三種が候補に挙げられた。在来種ではなく輸入種に軍配が上がったのは、これらがひとえに、使役犬として作出された犬種だったからである。
 そうして最終的に実験体として導入されたのは、やはり第一印象には抗えなかったのか、シェパードの子犬たちだった。軍犬育成所は陸軍歩兵学校内に設置されることが決まり、その担当獣医として、この春からわたしの同期が派遣されている。
「リヒト」
 声を掛けるより早く、リヒトが小屋から飛び出してきて、盛んに尾を振った。リヒトの世話をするのはもっぱら輝彦だが、リヒトのなかでは、どうやらわたしのほうが上位にいるらしい。輝彦が日頃から、わたしが長兄だと言い聞かせているのだろう。

 

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