幻創文芸文庫 (β)

小説好きの創作小説を無料配信*スマホ対応

ノンジャンル

前職の話

   

 諒と面識があるだろう彼女とやり取りを交わすスタッフたち。
 マスターと飛由は彼女とのやり取りで、明らかに不快感を抱いていた。

 その日の業務が終了して、諒はみんなに頭を下げて謝罪した。
 諒のことが心配な気持ちは全員同じなわけで、諒が落ち着くのを待って彼女との過去を聞くことにした。

 

 
「す、すみませんっ!」
 明らかにいつもと様子がおかしい。
 諒の手助けに入って彼の横顔をパッと見た飛由も、諒の表情を見たほかのスタッフもそれは一瞬で察することができた。
 だが今すぐにどうこうするわけにはいかない。
 仕事中に私情を挟むのは、やはりよくない。
 それがどういった事情であれ、いきなり取り乱しては仕事に支障が出る。
 ましてここはレストラン。
 客がまだいるのに、このミスはやすやすと許していいものではない。
「大丈夫ですか?」
 飛由の問いかけにもこたえる余裕がない。

 ──声が届いてない。

 この近距離で、飛由の声が諒に届いていない。
 狼狽しきった諒。
 割れた皿を無我夢中でかき集める事しか、今諒の頭の中にはないようだった。
「変わろう。」
 背後から声をかけられて、飛由が振り向くと心治がいた。
 任せてくれと心治の眼が訴えている。
「お願いします。」
 自分のできる事には限界がある。
 少し悔しいが、飛由は立ち上がって心治に場所を譲った。
「小野寺。」
 声をかけてみたが、やはりこちらを振り向くことはない。
「諒!」
 強く低く、そして小さな声で諒の名を呼んで肩に手を乗せた。
 ハッとしたように諒は心治の方に視線を移す。
 短い呼吸。
 ジワリとにじませた、額の冷や汗。
 もともと肌は真っ白だが、普段少し桜色の頬まで真っ白になっている。
 血の気が引いているのだ。
「指は切ってないか?」
 心治のそれに、諒は徐々に心臓が落ち着き始めた。
「指…。」
 自分の指の事情なんて、気にする余裕はなかった。
 心治の声掛けで、手に持っていた皿を紙袋に入れて手を開く。
 両方の手のひらを開くと、指先がカタカタと震えていて手さえも真っ白になっている。
 幸い指にけがはないようだった。
「大丈夫だ。気にするな。あの女はマスターが抑えてくれている。怖がることはない。お前はもうここの人間だろう?文句を言われることはもうないんだ。」
 前職でのことが、どうしても諒の脳裏から離れてくれない。
 だんだんと意識がはっきりしてくる感覚が、諒の中に現れてきた。
「心治さん…。」
 泣きそうだった。
「泣くな。ここで泣いたらシャレにならんぞ。男だろ。耐えろ。」
 なんとか耐えてもらえないと、ここで諒が戦力外になるのは正直きつい。
 心治がそう思うくらいに、諒は今このレストランの一戦力として存在しているのだ。
「大丈夫だから。」
 念押しして、心治は諒と目を合わせた。
「…はい。」
 涙ぐんではいたし、今にも涙がこぼれそうだった。
 だがそれをこらえるくらいのメンタルが、無意識に諒の中に育っている。
 諒の眼からは、泣いてたまるかという強い意志が感じられた。

 ──大丈夫だな。

 心治は直感的にそう察した。

 マスターと心治の計らいで、諒はカウンターから一番遠い位置で仕事をすることになり、カウンターではマスターが彼女の相手をしていた。
 面倒な相手というのは、なぜだかなかなか帰ってくれない。
 互いに深い仲だと感じている相手ならば、時間はおのずと早く過ぎていくし、そういう相手は引き際をわきまえているものだ。
 マスターだっていつまでも一人にかかわっているわけにはいかない。
 マスターは話題が豊富だから、彼女と会話が途切れることはない。
 しかしもうかなり時間がたったはずである。
 体内時計は誰よりしっかりしているから、もう小一時間ほどたったのではないかとマスターは彼女と話しながらちらりと掛け時計に目をやった。

 ──あらあら。

 ここ最近狂うことのなかった体内時計で一時間と感じていた時の流れは、実際20分ほどしか経過していなかった。
「小野寺君、ほんとに使えないでしょ?あんな子切って私を雇っていただけないかしら?私は有名な音楽大学を出てるのよ。」
 たびたびこうして、彼女は諒をやめさせて自分を雇えという趣旨のことをダイレクトにいってくる。
「小野寺君はとてもいい腕のピアニストですよ。大切な私たちの家族です。」
 スタッフは家族。
 その家族のことを軽視するような発言は、マスターとしてはやはりいただけない。
 笑顔を取り繕ってはいるが、マスターから醸し出される黒い空気を飛由はしっかり感じ取っていた。
「マスター、あちらのお客様からご指名です。」
 席をはずして、ここは僕に任せてください。
 飛由からのアイコンタクトに、マスターは小さな息をついてうなずいた。
「申し訳ございません、席を外させていただきます。」
 彼女に一言断りを入れて、マスターが飛由の背中の後ろを通っていく。
「マスターに代わって僕がお相手をさせて頂きますね。よろしくお願いいたしま」
「ねえ、あんたじゃなくて橘さんは?」
 飛由の声を遮って、彼女はカウンターに肘をつき、飛由とは目も合わせずに頼んだウイスキーを一口含んでホールの目をやった。

 ──何この人。

 あまり他人に対して引くことはない飛由だが、彼女に対して完全に内心引いてしまった。
「申し訳ありませんが、橘にも事情があります。」
「呼んできなさいよ。あんた従業員でしょ?」
「お客様のご都合で安易に動けるほど、このお店のスタッフは暇を持て余しているわけではありません。」
「使えないわね。あんたも小野寺君と大差ないんじゃないの?」
「ここのスタッフのことをそれ以上悪く言うのは、聞き捨てならないですね。」
 売り言葉に買い言葉状態になってしまったその時だった。

「お引き取り願います。」

 

-ノンジャンル
-, , , , , , , , , , ,


コメントを残す

おすすめ作品