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ハートフル

沖の瀬 (1)

   

 山陰の、小さいが底曳き漁の盛んな漁師町で生まれ育った健太は、常日頃から姉兄のように大学への進学を口にする母の反対に逆らって、町の漁師に憧れ、中学を卒業して漁師になる希望を抱く、海が大好きで素潜りの得意な小学六年生だった。
 小学生最後の夏休みの一日目、仲良しの武、洋二と一緒に、大人の漁師でも潜るのを敬遠する程深い沖の瀬に挑戦して大漁を得て、自分が大人になったように誇らしい気持ちになるが、その夜に他の町からやって来た男達の密漁を発見し、大人が皆誠実に生きている訳ではない事を思い知る。
 また夏祭りの朝、養殖の計画を余儀なくされる程、港の漁獲高が減少している事を知り、漁師への夢に翳りを覚える。そして盆明けに台風が過ぎ去った後、大人になれたような気にさせてくれた沖の瀬で、外海の強烈な潮の速さを体験し、生まれて初めて海に対する恐怖を覚えた健太は、自分が未だ子供であり、大人は心身共に強く生きている事を悟る。
 中学生になり、大好きなじいちゃんとばあちゃんの死を相次いで経て一層大人の強さを認識し、子供の自分が漁師になる事に対して抱いていた不安が益々大きくなる。
 しかし、三年生の夏、小学生の頃から初恋を育み続けた扶美の「健太君なら、漁師さんのお嫁さんになっても良い」という言葉で決心した健太は、父母に「漁師になる」と宣言して許しを得て、じいちゃんの本家の船に乗せて貰う事になり、念願の漁師になる。

○全文中の方言の解説を最終ページに掲載。

 

 
 今日は一学期の終業式。
 暑さに蒸せ返る教室で、明日から迎える楽しい夏休みに心を躍らせる子供達の、既に真っ黒に日焼けした顔は、滴る汗と共に噴き零れる嬉しさを隠し切れず、先生の退屈な話の終わりを待ち切れないように、あちらこちらで背中が揺れている。
 机の中の物をランドセルに放り込む者、通信簿を小さく開いて覗き込んでは溜め息を付く者、外を眺めながら貧乏揺すりをする者、前後左右同士で内緒話をする者。

「病気するな。悪さするな。親の手伝いをせえ。以上。終わり」
 訓話に耳を傾けない子供達の様子に呆れた先生が、苦笑いしながら終礼の挨拶をすると、歓声が教室内に湧き起こり、ほとんど同時に他の教室からも同様の歓声が相次いだ。
 先生や同級生達と、口々に別れの言葉を交わしながら、大の仲良しの武、洋二と連れ立って教室を出た健太は、きしむ古い板廊下を小走りで急ぎ、下校する子供達でごった返す玄関を飛び出し、風もほとんど吹かないのに、乾燥して歩く度土煙の舞い上がる校庭を、年季の入った木造の校舎沿いに校門に向かった。

 四〇日間の夏休みで、勉強から解放された三人の足並みが、嬉しさのあまり早くなる。
 小学生最後の夏休みは、何か特別な楽しさが待っているように思えた。

 心を躍らせる三人が校舎の端まで歩いた時、横手の音楽室の開け放たれた窓から、いきなり流れ出た美しいピアノの旋律が、健太の心を甘くときめかせた。
《扶美がピアノを弾いとる》
 扶美は合唱部の部長で、小さな頃からピアノを習っており、市内のコンクールで賞を獲った事もある程上手だった。
「健太く―ん、可愛い扶美ちゃんがねー、逢えなくなるけど元気でねって、言うといてってー」
 その前を通り過ぎようとした健太の頭上を突然襲った賑やかな合唱に、冷や汗を覚えて見上げると、音楽室の窓辺に悪戯っぽい笑顔を並べた扶美と仲良しの女の子三人組が、手を振りながら健太をからかった。
「い、いやっ、い、言わんといてっ」
 三人の背後から聴こえて来る、確かな指遣いで奏でられていた美しい旋律が、扶美の小さな叫びと共に一瞬大きく乱れた。
 健太は、音楽室前の廊下を通り過ぎる時、開け放たれた扉の向こうに、何度か見た、扶美のピアノを弾く凛とした美しい姿と、小首を傾げて恥らう清楚な微笑みを想い浮かべ、名も知らぬその旋律につかの間聴きほれながらも、名残惜しさを振り切り、背を向けて歩き出した。

 健太は扶美が好きだった。
 扶美も健太が好きだったであろうが、互いにその初恋を言葉にした事は一度もなかった。
 だが周囲の誰もが二人の気持ちを知っていて、からかったりしても、二人は恥らうだけで否定しなかったせいか、二人の初恋は本人同士は勿論、同級生達の間でも暗黙の了解事になっていた。
「可愛い扶美ちゃんがねーん、さいならってーん、言うといてってーん」
「いやん、言わんといてーん、好きよーん」
 武と洋二が、背後から健太にじゃれ付くようにして抱き付き、はやし立てた。
「しょべかうなや」
 恥ずかしそうに彼らを振り切って駆け出し、校門を出た健太を二人が追い掛けて来た。

 遠くにかすむ薄く藍色掛かった山並みの上に、のんびり昼寝しているような白い雲が幾つか浮かび、真っ青な空の中央に輝く夏の太陽が、濃淡の茶色と濃淡の緑色に彩られた田園を焦がすように照り付け、焼けた土の匂いと草いきれが息苦しい程立ち込めていた。
 通学路の脇の田畑や夏草の生い茂る叢で、夏虫や蛙の大合唱が三人の足音と、教科書や文具の詰まったランドセルの鳴る音を迎えては静まり、後を追い掛けては、再び賑やかに響き渡った。

《夏休み中は、登校日しか会われへんが》
 健太は心に充ちる扶美への想いと、甘酸っぱい寂しさをいとおしく抱き締め、陽炎が揺らぐ一本道を、土煙を立てて走り続け、扶美の家や学校がある町と、自分達が住む港町を隔てて流れる川に架かる、古い木の橋の上でやっと止まった。
 低学年の頃から毎年一緒に学級委員をしていた扶美を、一年程前から何かの拍子に見つめたり、心に思い描いたりする度に襲われる、胸がときめいて締め付けられるのに自分で制御出来ない不思議な感覚を、健太は戸惑いを覚えながらも決して疎ましく思ってはいなかった。

《海だ。凪いどる》
 しかし熱く焼けた橋の欄干に手を置いて、西手の河口の彼方に眺められる、陽光にまぶしくきらめく、真っ青な夏色をした日本海の雄大な存在が、健太の心と身体を弾ませ、扶美の面影を一瞬にして心から消し去っていた。

「昼から魚釣りに行こや」
「何処にや?」
「縦波止」
「良いで。ほんなら、昼飯食ったらな」
 健太は追い付いて来た二人と同調して歩き出し、何時ものように通学路から逸れて、海で遊ばない時の子供達の遊び場になる、「はげ山」と呼ばれる小山の麓を巡る山道に入った。

 小道の両側の畑ではカボチャ、ナス、サヤエンドウ、トマト、キュウリなどの夏野菜がたわわに穣り、その上をチョウチョ、ハチ、アブ、トンボなどの様々な昆虫が羽音を立てて飛び交っている。
 三人の気配を感じたバッタ、コオロギ、カマキリなども飛び立つ。
 遠く近く聴こえるヤマバト、カラス、シジュウカラなどの鳴き声をかき消すほどおびただしく降り注ぐせみ時雨と辺り一面の虫の声、絶え間なくきらめく木洩れ日が、嬉しい夏休みを迎えて転がるように、海が臨める山道を駆け下る三人を包み込む。
 山道を辿って通学路に戻った三人は、生まれて以来慣れ親しんだ、磯の香りと魚の匂いが一年中絶える事のない町並に入り、手を振ってそれぞれの道に別れた。

 

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