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歴史・時代

東京探偵小町 第二話「宣戦布告」 <1>

   

「おいで、ニュアージュ。月夜の散歩だ」
御祇島は厳かに逆十字を切り、愛猫を抱き上げると、彼らの「唯一にして絶対なる闇の守護者」を讃えた。

小説版『東京探偵小町
第一部 ―怪盗編―

Illustration:Dite

 

 愛猫の呼びかけに、御祇島時雨はゆっくりとまぶたを開けた。
 暗闇のなかで、虎目石にも似た双の瞳が金色の光を放つ。すでに火ともし頃を過ぎているにも関わらず、室内にはひとつのあかりもない。春宵の月はおぼろに霞み、夜の闇が部屋の隅々にまで染み渡っていたが、それでも御祇島の手は淀みなくピアノを弾き続けていた。
「お入り」
 主人の許しを得て、細身のロシアンブルーが音もなく床を蹴る。次の瞬間、美しい小夜曲に、おかしな音が幾つか混じった。
「ニュアージュ。仕方のない子だ」
 無作法をとがめられても、ニュアージュは気にした様子もない。翠玉のような目にいたずらめいた光を浮かべて、しきりに主人を外へと誘っている。
「退屈だって? ふふ、わたしもそうだ」
 ピアノを弾く手を止め、銀色の毛並みをひと撫ですると、ニュアージュが気持ち良さそうに喉を鳴らした。御祇島はしばらく無言でニュアージュを構っていたが、つと立ち上がり、紗のカーテンが掛かる窓辺に寄った。
「そう……最近の帝都は、退屈極まりない。あのつまらぬ殺人鬼が永原探偵を殺めてからというもの、帝都は色彩をなくしてしまった」
 花曇りから覗く淡い月を見上げ、幾度となく闘った、今は亡き名探偵を思う。彼との戦いに競り勝ち、これまでに幾つかの美しい獲物を手に入れてきた。思惑違いで退却を余儀なくされたときもあったが、縄を打たれたことは、まだ一度もない。素顔を隠す仮面は言うに及ばず、上着の端にさえ、触れさせたことはないのだ。
 さまざまな新聞が書き立てているように、御祇島時雨のもうひとつの名である「怪盗アヴェルス」の最大の武器は、素早いという次元をはるかに超えた、驚くべき身のこなしの軽さにあった。
(…………当然だろうな)
 漆黒に灯る、双つの黄金。
 人間のものではありえない、異様な輝き。
 そこには、この世にあるすべてのものが、昼間よりも冴え冴えと映し出されていた。
「光なくては、影も存在できぬ」
 詩の一節を暗誦するかのように、御祇島は愛猫に語りかけた。
「わかるだろう? 名探偵なくしては、怪盗も存在できないのだよ。道源寺警部が相手では、どうも張り合いがなくてね。予告状を書く気も起きない」
 同意を示すように、ニュアージュが長い尻尾を揺らす。
 御祇島の愛猫であり、忠実な下僕でもあるニュアージュは、誰よりも深く正確に主人の意を汲む。だからこそ、主人の物憂げな眼差しが気掛かりなのだった。
「いっそのこと……いや、繰言はよそう。この暮らしを良しとしているわけではないが、取り立てて不満があるわけでもない。この邸を棄てるのも、まだ早いだろうからね」
 御祇島は長椅子に投げ出してあった黒い上着を羽織ると、ゆるく波打つ亜麻色の髪を、無造作に束ねた。出掛ける気配を察して、ニュアージュが鍵盤から飛び降り、御祇島の足元に擦り寄る。

 

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