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ハートフル

沖の瀬 (3)

   

水中眼鏡越しに、そびえ立つ山のような沖の瀬が初めて臨めた時、健太は興奮と緊張で肌が粟立つのを覚えた。

 

 
 丼一杯の傷イカの刺身と、丼一杯のイチゴの朝食を済ませ、父が仕事に出掛けてから、健太は片付けをする母に促されて、ちゃぶ台に宿題を拡げた。
 しかしすぐに、眼の前にある古い柱時計が気になり始めていた。
《あーあ、未だ二時間もあるが》
 小学校の校則で決められた夏休みの外出時間は、盆と夏祭り以外、朝一〇時から夜六時だったが、厳正なものではなかった。
 それは暗黙の了解事で、子供達が朝には畑仕事の手伝い、夜には船の手伝いに出るからだった。
「おかさん、お茶にしてごせや」
 しばらくしてじいちゃんが、出掛ける時何時も、坊主頭にねじりはちまきをしている手ぬぐいで滴る汗を拭きながら、船のバッテリーの充電から帰って来た。
 さかいのおじいさんも一緒だった。
「どがなかな? 健太、勉強か? 良い成績だったげなの。じいさんが自慢しとったで」
 さかいのおじいさんが健太を見降ろして、赤黒いしわだらけの顔をほころばせた。

《じいちゃんが、わしの事自慢しとった》
 健太はさかいのおじいさんに褒められた事より、じいちゃんが自慢した事が嬉しくて、さかいのおじいさんを見上げて照れ笑いを浮かべ、宿題を畳の上に降ろして腹ばいになると、二人がちゃぶ台を囲んで座った。
 この町では、朝の一〇時頃と昼の三時頃、あちらこちらの親しい家を行き来して集まり、世間話をしながら、お茶を飲む習慣があった。
 母が湯飲みや急須を乗せた盆と、湯気の立っている古びたやかんを運んで来て、お湯をポットに注ぎ、お茶の葉を入れた急須にも注ぎながら、さかいのおじいさんに話し掛けた。

「まあ、毎日暑いでな」
「さい、年々暑なるげなでな」
 じいちゃんとさかいのおじいさんが煙草に火を点け、母が居間の隅に置いてある灰皿を取ってちゃぶ台に乗せ、二人に向けて風が行くように扇風機を回した。
 母が入れたお茶を配っていると、ばあちゃんがキュウリとナスの浅漬けを入れた器を、盆に乗せて運んで来て、母の後ろに座った。
「今年も野菜が良うなって、美味しいでな」
「ほんに毎年ありがたい事だでなあ」
 母がばあちゃんから受け取った器をちゃぶ台の上に乗せ、じいちゃんとさかいのおじいさんが浅漬けを指で摘まんで口に放り込んだ。
 健太も朝食に食べて、美味しいと感じた浅漬けを食べたかったが、野菜を美味しいと思っている事を母に知られたくなくて、止めた。
 母がじいちゃんとさかいのおじいさんをうちわで扇ぎ、ばあちゃんがうちわを手にして、何時ものように無言で、ハエを追った。
「おじいさん、あんた、帰りにナス持っていんどくれやな。採れ過ぎて困るが」
「おお、おおきに。うちねは今年ナス植えんかったき、助かるが」

《ほんなら全部持っていんどくれや。うちねはいっちょもいらんき》
 町のほとんどの家が畑で野菜を作っていて、作っていない野菜を分け合う習慣があった。
 健太はそれがうらめしかった。
「うちねは今年カボチャがまげになっての、後で嫁が持って来るで」
「おおきに。助かるがな」
《わし、助かりともないで》
 話している処へさかいのおばさんが来て、土間に重そうなしょいこを降ろした。
「どがなかな? やれ、しわいの。カボチャ三つ程、もろとくれやな。またのうなったら言うとくれよ。持って来るき」
「いっつもおおきに。後で背戸からナス出すき持っていんどくれよ。暑いな、毎日。あんたも上がってお茶飲みなはいや」
「はい、おおきに。健太の勉強の邪魔にならへんかいな?」
「は、済んだき。わしもお茶おくれやな」
 健太はむきになって宿題を片付け、じいちゃんの横に座り込んだ。

「しかしのう、野菜は毎年毎年良うなっとるが、魚は年々獲れんよになって来とるがの」
「さいのう。獲れんよになったの」
 さかいのおじいさんがぽつりと言い、じいちゃんが煙草の煙をくゆらせて、うなずいた。
「何でもな、隣の市だ、三年前に出来た化学工場が排水を海に流して問題になっとるげなで。そいにな最近百姓家だ、跡継ぎがおらんで人手が足らんよになって、使う農薬の量がずの増えとるで、この辺の海も、海水が汚染されて来とるげなでな」
「さい。こないだ、新聞に載っとったなあ」
 さかいのおばさんが母から受け取ったお茶をすすってから、声を潜めて言うと、母があいづちを打ち、皆がうなずいた。

 健太は驚いた。
 この地方の産業の発展に貢献していると聴かされ、去年の秋に遠足で見学に行った、隣の市の化学工場が流す排水のせいで、また農業を営んでいる同級生の家も沢山あったが、その農家が使う農薬のせいで海水が汚染され、魚が減って来ているとは。
 健太の心に初めて、自分の将来に対する不安が過ぎった。

「漁師はこいから、おおごとかも知れんの」
 じいちゃんが寂しそうにつぶやき、さかいのおじいさんもうなずいた。
「健太も大学出て、おとさんやあんちゃんみたげに、給料取りになった方が良いでな」
《おばさん、要らん事言わんで良いに》
 さかいのおばさんが、健太の最も触れられたくない事を口にした。
「わし、大学なんか行かへんで。中学校出たら漁師になるき」
 むきになって言いながら宿題を持って立った健太に、予想通り母の説教が始まった。
「なしてそがな事言うかいな。ねえちゃんもあんちゃんも頑張って勉強して、大学出たに」
《あれやちの話は止めとくれや》
「裏の浜で魚釣っとるきな」
 母が姉兄を語る度に覆う不本意な思いが、健太の心を一層曇らせた。
 健太は急いで茶飲み話の席を離れて納屋に向かった。

 

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