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ハートフル

沖の瀬 (8)

   

 か細く震える、うわ言のような小さなばあちゃんの言葉。
 健太は思わず立ち止まって、ばあちゃんの様子を伺った。
 一年中、起きてから寝るまで、ほとんど誰とも、何の会話をするでもなく、何の感情も持っていないかのように無言で暮らしているばあちゃんが、周りに誰もいないのに、それでも声を圧し殺して泣いていた。

 

「は、みがらも言う事利かんし、漁がいっと減って、燃料代も出んよなったき」
 じいちゃんが船を降り、さかいのおじいさんも「独りだ、無理だき」と言って漁を辞めた。
 それは、じいちゃんが何時も何時までも、強く大きく輝いて見えた健太には、ひどくショッキングな出来事だった。
 じいちゃんは、母やばあちゃんと畑仕事をし、健太と本家の船の手伝いに出るだけで、他に何をするでもなく、指定席の上がり口に座ってラジオを聴いたり、テレビを観たり、裏木戸で海を眺めて過ごしたり、誰かがお茶を飲みに来た時に世間話をするだけの生活になった。
 大好きな酒も次第に呑む量が減り、そのうち船の手伝いにも出なくなった。
 そして時折寝込んだりするようになり、やせ細って小さくなり、正月が明ける頃には、成長し続けていた健太の方が、何時の間にか背丈も伸びて大きくなっていた。

《あのじいちゃんが、年取ると、こがにこまなって、こがに弱げになるだが》
 遠い記憶の中、幼い健太が虫歯の痛みに泣いていた時、二キロもある道程の歯医者まで健太をおぶって往復してくれたじいちゃんが。
 肩車をされた時、地面から余りに高過ぎて怖かった、あのじいちゃんが。
 アルバムに、あぐらをかいたじいちゃんの膝の上に小さく包まれた健太の写真が貼ってある、あのじいちゃんが。
 健太は次第に弱々しくなって行くじいちゃんを見るのが怖かったが、それでも時間の許す限りじいちゃんの傍にいたかった。
 毎日毎晩のように、真冬の日本海の猛々しい雪交じりの暴風が家を揺らし、海鳴りを響かせた。
 布団に横たわるじいちゃんは、健太に気付くと時折、独り言のように、「漁師はしわいき」とだけ言った。
 それは「しわいき」漁師にはなるなとも、「しわいき」腹を据えて一生懸命頑張れとも解釈出来て、健太を尚更悩ませた。
「どがでも良いが。お前が自分で決めら、良いてや」
 言葉の真意を尋ねる健太に、じいちゃんは何時もそうつぶやいて、眼を閉じて力無く微笑むだけだった。
 そしてじいちゃんは、その冬を越して健太が中学二年生になった五月、よほど体力が弱っていたのか、軽い風邪からいきなり重度の肺炎を引き起こし、帰らぬ人となった。

 健太が土曜日の午前中の授業を終えて帰ると、係り付けのお医者さんが来ていて、入院させる相談をしていた、その場で、まるで健太の帰宅を待っていたかのように、息を引き取ったのだ。
 どんな時でも何があっても、健太には微笑んで優しくしてくれた、大好きなじいちゃんに向かう健太の想いを、じいちゃんは二度と受け止めてくれない人となった。
 健太はじいちゃんが横たわった布団にうつ伏して泣いた。
《じいちゃんがおらんよなって、わし、どがしたら良いかな》
 勿論じいちゃんは健太の頭を撫でる事も、健太に声を掛ける事もなかった。

 じいちゃんの遺体の傍に居たたまれなくなり、無意識に海を眺めようと裏木戸を出る健太の涙眼に、納屋の漬物樽の陰で、人目を避けるようにうずくまって、泣いているばあちゃんの姿が映った。
「あんちゃんが死んだが。あんちゃんが死んだが」
 か細く震える、うわ言のような小さなばあちゃんの言葉。
 健太は思わず立ち止まって、ばあちゃんの様子を伺った。
 一年中、起きてから寝るまで、ほとんど誰とも、何の会話をするでもなく、何の感情も持っていないかのように無言で暮らしているばあちゃんが、周りに誰もいないのに、それでも声を圧し殺して泣いていた。
 ばあちゃんは自分が病弱だったせいで、ずっとじいちゃんや健太の父母の世話になっていた。
 それをずっと負い目に感じていたから、何時も周りの誰に対しても遠慮し、じいちゃんや父母の言うままに、自分を抑えて生きて来たのだ。

《悲しても苦しても、何か言いたても周りの皆に遠慮して、いっつもあがして我慢しとっただろか。ほんとは皆がおる前ででも、じいちゃんに甘えたかっただないかな。ほんとはじいちゃんにすがり付いて泣きたいだないかな。じいちゃんもばあちゃんが心配で、死んでも死に切れんかっただろにな》
 生きる事の苦しみや悲しみがほとばしるような、ばあちゃんの姿だった。
 小さな天窓から薄日が差し込むだけの薄暗い納屋で、ばあちゃんの身体が一層はかなくなって、消えてしまいそうに感じた。
 健太は思わずばあちゃんの背後に駆け寄り、ばあちゃんの手を取って引っ張った。

「じいちゃんのとこに行こ」
 涙に塗れたばあちゃんのしわだらけの小さな手を引っ張って、炊事場の土間から座敷に上がり、母とお医者さんが見守るじいちゃんの傍に連れて行った。
 ばあちゃんは少しの間じいちゃんを見つめて立ちすくんでいたが、わあっと泣き出してじいちゃんにすがり付いた。
「あんちゃん。あんちゃん。わしを置いて。あんちゃん」
 ばあちゃんは、じいちゃんの布団をしわだらけの小さな手でかきむしるようにして、泣いた。
「健太も人の気持ちが思い遣れるようになったかいな」
 お医者さんが微笑みながら健太の頭をくしゃくしゃに撫でた。

 健太は新たに溢れた涙を制服の袖でぬぐいながら、小走りに裏木戸へ出た。
 海はじいちゃんの死にも拘らず、健太の悲しみにも拘らず、暖かい春の穏やかな陽光を浴び、まぶしく輝く波をたたえて雄大だった。
 中学校がある岬のあちらこちらに野生の藤の花が美しく咲き誇っていた。
 しかし健太の悲しみと溢れる涙が、美しく輝く海や、瑞々しい新緑を湛えた山々を暗くゆがんだものにし、空も海も砂浜も、区別出来なくさせていた。
 近所の誰かが通報したのであろう、漁業組合の拡声器が、じいちゃんの死を町中に知らせた。
 海岸通りを歩いていた数人の人達が一斉に脚を止め、健太の家の方を振り返って両手を合わせた。
《海は変わらへん。人間が変わるだけだき》

 

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