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ハートフル

沖の瀬 (9)

   

「扶美ーっ。好きだーっ」
 中の瀬の海上辺りまで泳ぐと、海面に仰向けになり、健太は思いっ切り叫んだ。
 辺りはばからず、何度も叫んだ。
 嬉しさと興奮で身体が震えていた。
 満月と無限数の星々を仰ぎながら、健太はずっと波に身体を任せていた。

 

 そんな時だった。
 扶美が口を開いた。
「あ、あのね。健太君」
《やっぱりいにたいだが》
「お、おう? いぬるか?」
 健太ががっかりしたが、また話す機会もあるだろうと想い、立ち上がり掛けた。
 しかし扶美は意外にも立ち上がろうとはしなかった。
 そして座ったままの扶美の口から出たのは、健太には想像も出来なかった言葉だった。

「お、お母ちゃんに訊いたが。私、りょ、漁師さんの、お、お嫁さんになっても良い? って」
 驚いて扶美の顔を視詰めると、扶美は健太の顔も見ずに素早く立ち上がって、海岸通りの方に走り去った。
 健太が驚いて立ち上がると、芙美が少し走ってから立ち止まり、振り返った。
「お母ちゃんがねー、健太君なら、良いってー」
 芙美が少し大きな声で叫んだ後、再び背を向けて走り出し、すぐに闇の中に消えた。

 健太はしばらく呆然と座り込んだままだったが、やがて立ち上がった。
《扶美が、わしが高校行かんで漁師になっても、わしの嫁じょになる、いう事だが》
 心の中で扶美の言葉を繰り返しながら、徐々に深く激しい喜びがこみ上げて来た。
 振り返って東の空を見上げる。
 鮮やかな満月と、満ち欠けを繰り返す月に未来永劫寄り添っているような金星の輝きを見つめながら、健太は飛び上がって叫びたい程感動していた。
 このまま家に帰るのも、現実に引き戻されるようで嫌だったし、夏祭りの雑踏の中に身を置くのも嫌だった。
 健太は波打ち際まで降りて、洋服のまま海に飛び込み、全力で泳ぎ出した。
 扶美が自分を好きでいてくれる事は、何年も前から自覚してはいた。
 しかし、具体的な言葉として受け止めたのは、これが初めてだった。
 それも健太が告白する前に、である。
 扶美もまた健太に好かれている事は自覚していた。
 だから進路に悩む健太に、漁師の道を選んでも自分の気持ちは変わらない事を告白したのだ。

「扶美ーっ。好きだーっ」
 中の瀬の海上辺りまで泳ぐと、海面に仰向けになり、健太は思いっ切り叫んだ。
 辺りはばからず、何度も叫んだ。
 嬉しさと興奮で身体が震えていた。
 満月と無限数の星々を仰ぎながら、健太はずっと波に身体を任せていた。

 中学生最後の夏が終わり、三年の秋を迎えた。
 港ではシイラ漁が終わり、例年のように九月に入って底曳漁が始まり、同時にタイとワカナ、ヒラメ、アワビとサザエの養殖計画に応じた、大規模な港の改造工事がスタートした。
 その夏の総会で、養殖は水産試験場の研究者の指導の下で、年寄り達や婦人会の一部の女性達に委ね、働き盛りのほとんどの漁師は従来通りの漁を続ける事が決まっていた。
 また都会に働きに出ていた者も何人か帰省し、養殖に参加するという話も聴いた。

 扶美とは、学校で何度も顔を合わせたが、お互い照れ臭いせいで、友人達と一緒の時以外はすぐに離れたりしていた。
 しかし、健太の胸のときめきは、今まで以上に激しくなっていた。
 扶美も恐らくあの言葉を口にした事で、健太への思いを一層募らせる結果になってしまっていた。
 健太の方から扶美に声を掛ける事などほとんどなかっただけに、扶美が健太に話し掛ける事が少なくなったので、二人の会話も接触も途絶えてしまっていた。
 しかし、扶美は勿論、健太も、それによって互いの想いが褪める事などあり得ないと信じていた。

 新学期が始まってから、健太に話し掛ける事がなくなった扶美に、もう一つ変化があった。
 扶美が何故か、指先に包帯を巻いたり絆創膏を貼っていたりする事が増えたのである。
《扶美はお寺の子で、荒い仕事なんかせえへんに、何で指先を怪我するだろか?》
 漁師さんのお嫁さんになる、と健太に対して宣言したので、まさかその練習をしている訳ではないだろう、と健太は思った。
 そうであれば、健太をさらに有頂天にしたのであろうが。
 しかし宣言されたとしても、扶美が高校を卒業し、健太が一人前の漁師になって、いわゆる、年が明け、扶美を迎えるには数年掛かるのだから、今から、訓練もないだろう。
 それにしても、あの指先の怪我は何だろう。
 それはほとんど毎日であり、また包帯や絆創膏の場所が違っている事もしばしばであった。
 放課後の合唱の練習でも、扶美が、指が痛くてピアノが弾けないという話を聴いた。
 しかし、扶美に健太の方からその理由を問い質すのも変だし、と、健太は手をこまねいて、ただ訳も解らず首を傾げるだけであった。

 やがて、学校での担任との進路相談の時が近付いてきた。
 健太は意を決して、父母に向かって、ついに宣言した。
「中学出たら、漁師になる事に決めたきな」
 健太が漁師になる事を諦めたと思い込んでいた母は、勿論ひどく驚いた。
「あんちゃんもねえちゃんも、高校出て大学も出て、ちゃんと会社勤めしたに、なしてお前はそがに勉強を嫌がるかいなあ」
 健太は涙を流しながら訴える母に、初めて、改まって自分の想いを言葉にした。
「おかさん。は、ねえちゃんやあんちゃんの話はしなはんなや。あれやちはあれやち、わしはわしだでな。わし、漁師になってこの家におって、おとさんやおかさんの面倒看てあげるきな」
「わしらの心配はせんでも良いが。まあ、未だ若いきな、やり直しも効くで。お前が思たよにしてみや」
 母は不満そうだったが、父が反対しなかったので、それ以上言葉を継がなかった。
 父にも反対されたら高校へ行くしかないと、決心して打ち明けた父の意外な言葉に、健太は躍り上って喜んだ。

 

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