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ハートフル

ファイナル チューン [2]

   

《な、何だっ? こ、これっ?》
 店内に入った瞬間、歌声が大きくなって心の奥まで跳び込んだ。
 眼の前にめくるめく輝きに溢れた真っ青なサンゴ礁の海が浮かんだ。
 その光景の余りの鮮烈さに、おれは驚いて立ち止まった程だった。

 

 何万回昇り降りしたか、タバコと酒の匂いが澱む店に降りて行く階段の踊り場の二重扉を開いた時、店内から女性ヴォーカルが聴こえて来た。
 年中無休の営業で、ステージのない時や昼間はレコードやCDを鳴らすか、ビデオやDVDを流すかしていて、それはそれで昼間でも結構な数の客は来ているが、一二時開店の未だ二時間も前だ。
 開店を任せている早番のアイコかシンが暇を持て余して早く出勤して来て、自分の好きな曲を鳴らしているのか。
《何だ? これ? ええっ? 誰だっけ? 誰の歌だっけ?》
 こんなヴォーカリストのこんな曲は聴いた事がなかった。
 ヴォーカルだけで演奏が聴こえない。
 アカペラの曲なんて、そんなにないはずだ。
 店には五万枚以上のレコードとCD、ビデオ、DVDがあるが、全部おれが仕込んでいたし、レコード会社からの試聴盤も含めて、店で鳴らす物は全て、自分で何度も繰り返し聴いていた。
 まして今耳に沁み込んで来るこのヴォーカルも、曲もおれの好みだ。
 知らないはずがない。
 そして言葉まで聴こえなかったが、日本語のイントネーションだ。
 年のせいでド忘れしたか。
 おれは苦笑いしながら、開いたままになっていた鉄製のドアを閉め、階段を降り、もう一枚の鉄製のドアを開いた。

 時の果てまで 飛んで行く
 貴方が見た事のない 世界の果てまで

《な、何だっ? こ、これっ?》
 店内に入った瞬間、歌声が大きくなって心の奥まで跳び込んだ。
 眼の前にめくるめく輝きに溢れた真っ青なサンゴ礁の海が浮かんだ。
 その光景の余りの鮮烈さに、おれは驚いて立ち止まった程だった。

 いつも いつも いつも いつも

 次の瞬間には、きらめきに満ちた地上はるかな大気圏の上空から、青い地球を見降ろす光景が浮かんだ。
 おれは呆然となって立ちすくんだ。
《何の幻影だろう?》
 まぶしい外から薄暗い店内に入ったせいで眼が馴染まない。
 眼を凝らすと、カウンターの奥でアイコが独り、洗い物をしているのが見えた。
 アイコはドアを開いたおれには気付かないままだ。

 私の愛は風 
 触れるのに気付いてよ

《おい、うそだろ? アイコが歌ってんのか? この声? アイコか?》
 驚いたおれは無意識に、音を立てずにドアを閉め、DJ室の方に忍び歩いた。
 ガラス張りのDJ室を覗くと、アンプのインジケーターは消えたままだし、モニター スピーカーからも音は出ていない。
 間違いない。
 アイコが歌っているのだ。
 何て言う事だ。
 この声。
 この歌い方。
 彼女の歌っている曲は聴いた事もない日本語の曲だった。
 いや、そんな事はどうでも良かった。
 おれは彼女の歌声にひどいショックを受け、一瞬のうちに心を奪われていた。

 四〇年以上ロックを聴いて来たおれが、彼女のような声と歌い方を初めて知ったのだ。
 クラシックの声楽家の様に専門的な訓練を受けた歌い方ではなかったし、一流の女性ヴォーカリストのように経験を積んで鍛え抜いた声でも、歌い方でもなかった。
 細く、柔らかく、丸く、深く、そしてまるで今にも消え入りそうに透き通っていて、しかし一瞬凛として鋭く伸びやかに、彼女の想いがむき出しになる。
 そして聴いているおれの心の余分なものが全て削がれ、無垢な意識だけがむき出しにされ、歌声の向こうに拡がって行く無限の空間に放り出される。
 彼女の歌声がおれの心を包んで和ませたり、次の一瞬には、現在存在している次元からはるかに超越した空間に放り投げて、おれをひどく不安にさせたりする。

 小学三年生の時に聴き、初めて音楽の表現の深さを思い知らされたドヴォルザークの《新世界より》。
 小学四年生の時に聴き、ポップスにのめり込む契機になったレイ チャールズの《ボーン トゥ ルーズ》。
 小学五年生の時、真空管ラジオを組み立て、チューニングを回していた時に、耳に飛び込んで来て強烈な衝撃を受けたビートルズの《シー ラブズ ユー。》
 中学二年生の時に聴いて、そのアレンジの多彩さに驚いたヴァニラ ファッジのファースト アルバム。
 高校一年生の時に聴いて、夏の夜だと言うのに寒気がして、石斧を手にした原始人が入って来るような錯覚を覚え、怖くなって思わず窓を閉めた、チャーリー ミンガスの《直立猿人》。
 高校二年生の時に聴いて、その圧倒的な音の空間にのめり込んだレッド ツェッペリンのファースト アルバム。
 毎晩酒を呑んで泣きながら聴いた、二〇歳の時のジョン レノンのソロ アルバム。
 LPが磨り減る程繰り返し聴いたピンク フロイドの《エコーズ》。
 何時出遭ったかも想い出せなくなったほどのめり込んだイエス。
 一人の人間がこれだけの音空間を構築出来るのかと強烈なショックを受け、今でも暇さえあれば聴いているヴァンゲリス。

 こんな衝撃的な感覚は久しぶりだった。
 初めてファイナル チューンのサウンドに出遭った時と同じ。
 いや、それ以上だ。
 こんな興奮は永い間忘れていた。
 おれはアイコが歌う名も知らぬ美しい曲を聴きながら、眼に涙が滲むのを覚えた。
 無限の彼方に無限の数の大星雲をちりばめた、光一筋、音一つない絶対零度の果てしない宇宙空間。
 周囲を山と雲と大空だけに囲まれた孤高の山頂。
 見渡す限り風になびき続ける大草原。
 見渡す限り空と海だけの絶海の孤島。
 見渡す限り真っ白な大氷原。
 おれの脳裏に、まるで大自然の映像フィルムを見ているように、大いなる空間が次々と現れては残像が焼き付いた。

 彼女がおれの前に現れたのは半年ほど前、真夏のくそ暑い日で、弟と一緒だった。
「ここで働かせてもらえませんか?」
 大学生のアルバイトが二人も一度に、「就職が決まったので辞めたい」と言って来て、アルバイト募集の張り紙をした、その翌日の事だった。

 

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