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ラブストーリー

In the rain 3

   

啓介の初レッスン前日、向かいのマンションに運び込まれていくピアノ。その行き先はどうやら啓介の部屋。
明日のレッスンに、練習が間に合わないだろうと笑った花音だが、翌日、いつもの行動が思わぬ失態になってしまう・・・。
レッスンで顔を合わせても、その事に少しも触れてこなかった啓介に、改めて自分に対しての接し方を見せられたような気がして、花音はある決心をする・・・。

 

「はい、ストップ。もう一回ここから。指滑ってるよ。しっかり指上げて・・・」
 注意した場所を弾き、生徒に聴かせながら、花音は時計を見上げた。
「はい、どーぞ。」
 促されて、生徒が何とか弾き終わると、花音の顔が緩みを見せる。それを感じて生徒もホッと息を吐いた。
「じゃ、終わりにしようか。来週、二楽章やってきてね。」
「え~・・・コレやだ~。」
「ヤダじゃない。頑張ってね~。大丈夫、ゆっくりだから。ちょっと貸して。」
 生徒をイスから立ち上がらせて、代わりに花音が座った。そして、所々注意する場所を話しながら、範奏し終えて本を閉じた。
「じゃ、また来週ね。」
「はーい。先生さようなら。」
「気をつけてね。」
 本日、最後の生徒を見送り、玄関の鍵を閉めた花音は、何気に出窓に近づいた。すると、向かいのマンションにピアノ搬送用のトラックが止まっている。何事かとカーテンを開けて窓を少し開けて覗き込むと、一台の電子ピアノが運ばれて行った。チラリと見えただけだが、ショートのグランドピアノ型で、立派な電子ピアノだ。
 マンションでは、上下左右の騒音の問題から、電子ピアノが主流になっているが、それでもあそこまで立派な物を揃える人はそう居ない。花音の部屋に置いているのはグランドピアノだが、レッスン室は防音室にしてあるので音の問題は無い。それもこれも教室を開くと決めた時、仕方なくそうした物だ。
 余程本格的に拘った人だろうか、そんな事を思ってふと目に入った啓介の部屋の窓。あの寝室であろう部屋が、人影で賑やかだ。
「・・・星井さんが買った・・・とか?」
 まさかと思うが、どう見ても何かが運ばれているような感じに見える。
「え?ピアノ持ってないで・・・申し込んだの?」
 思わず目を丸くしてしまう。昔習っていたとはいえ、今頃ピアノを購入しているなら、明日に迫ったレッスンは、思うように弾けないだろうと思った。
 何となく込み上げた笑い。何て無鉄砲な人だろうかと口角が上がる。
 明日、曲の仕上がりが多少覚束無くても、大目に見てあげようと花音は窓を離れたレッスン室に入った。

 夜に練習をする時は、ちゃんとレッスン室のドアを閉める。
 イスに座ってから、自分のレッスンの練習を始めようとした。毎週土曜日、花音が自分の講師の所に行く曜日。この曜日だけは、生徒を入れていない。
 何となく開いた楽譜を目で追いながら、ぼんやりと啓介の事を思う。今は、講師としての自分ではなく、普通の女としてだ。
 雨の日にしか会えなかった彼。
 夜、レッスンが終わってから何度か覗いた事もあったが、花音が覗く時間に、あの部屋に電気が点いていた事がない。
 だから、今日が珍しい。こんな時間にあの部屋に電気が点いているのが。
 イスから腰を上げ、何もせずレッスン室を出た花音は、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出して、プルタブを上げながらもう一度出窓に近づいた。喉にビールを流し込みながら、花音は外を見下ろす。停まっていたトラックがゆっくりと走り去って行った。それを見送ってあの窓に視線を投げると、煙草を吸っている啓介が此方に気付いた。
 一瞬、胸が高鳴る。
 今は、講師じゃない自分。啓介を見ると、胸が熱くなって、訳も無く込み上げてくる何かがあった。
 啓介も花音に気付いていながら、ただ窓から見上げているだけ。いつものように煙草を吸い、外に紫煙を吐き出す。その仕草が素直にカッコイイと思えてしまう。
「・・・何してんだろ・・・アタシ・・・。」
 いつまでも見ていれば変に思われるだろうと、グイッとビールを呷って、無理矢理其処から目を逸らした花音は、カーテンを引いて、キッチンにビールを置き寝室に向かった。

 

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