幻創文芸文庫 (β)

小説好きの創作小説を無料配信*スマホ対応

ノンジャンル

まっさらなノート

   

若手美術商である高階 秀夫の通っていた中学校の美術部の顧問、樋口 純一は、国語の授業の際、何度もある話を口にした。「もっとも価値のあるノートはまっさらなノートだ。過去のどんな書物よりも価値を生み出すかも知れないし、まだ誰にも複製することもできない」、だから十分な努力をするんだ、と言うような意図が含まれているような訓話を樋口は飽きもせず繰り返していた。

高階 秀夫はその様子を内心鼻で笑っていたし、画家を志すのをやめて美術品の目利きになったのも、目に見えない可能性を信じるような樋口の言葉が間違っていると確信していたからでもあった。高階は、えげつない商売をする自分に疑問も感じなかったし、物を見る目が曇っていない自信もあった。

そんなある日、樋口から一通の招待状が届く。なんでも、ずっと所蔵してきたコレクションを譲りたいとのこと。

一人一点ということだったが、封筒に入っていた写真を見る限り、タダで貰えるものとしてはかなり期待が持てそうだった。

プロの美術商として樋口の家に赴いた高階は、期待通りの品が残っていることを確認したが……

 

「皆さん、この世で一番価値がある書物は何だと思いますか?」
 目を閉じた高階 秀夫の脳裏に、中学の頃の担任の姿と声がよみがえってきた。
 樋口 純一、出世にも社会的な賞賛にも縁がない、ごく平凡な定年間近の教師だった。
 国語の教師である一方絵が好きで、美術部の顧問をやっていたところだけは異色と言っていいかも知れないが、後世に名を残すような作品を残せるような素質とも無縁であり、ちょっと趣味の幅が広いぐらいの男としか校内でも見られていなかったはずだ。
 実際、授業を途中で切り上げて行われる熱のこもった、しかし、恐らくかなり下手な部類に入る喋りを真面目に聞いているのは美術部員でもあった高階ともう一人、岡田という少年だけであり、しかも実のところ高階に関して言えば「聞いているフリ」でしかなかった。
 内申点が高校の推薦に響くというルールが無ければ、三秒で熟睡していたところだ。
 この話を聞くぐらいだったら樋口のもう一つの趣味、ユニークな年賀状作りのノウハウを聞いていた方がずっとマシだった。
 国語と美術の素養がある彼にとっては、絵と文字を組み合わせることができる年賀状は本領を発揮できる分野と言ってよかった。
 フォーマルな時節の挨拶を記したものである一方、カジュアルに変化をつけることができる年賀状の性質も、人を面白がらせたいタイプの樋口にとっては波長が合うものだったのだろう。
 あぶり出しや特殊なインクを使った賀状作りなど、様々なアイディアを提示してくれた。中には、映画に出てくる情報部員が使いそうなレベルのものまであったような気がする。
 もっとも、いくら面白くしてくれようとしても、聞いているこちらが面白いかどうかは別なんだよな、と、内心ため息をつきながら高階はその日もぼんやりと話を聞いていた。
「この学校にも色々な本があります。教科書や専門書、あるいはこっそり漫画を持ってきている人がいるかも知れません。もう出版社の方では売っていないような貴重な本もありますし、有名な著者の方のサインが入ったものもあります」
 樋口はあくまで熱心に、とりわけ高階と岡田に聞かせるように声を高くしていく。
 実際、まったく聞く気のない高階にとっては苦笑もののリアクションなのだが、そんな感情をおくびにも出すような真似はしなかった。
「しかし、それよりももっと価値のある書物がここにはあるのです」
 樋口が教壇の下から、使用感は大してないが古ぼけたノートを取り出した瞬間、高階は心中で「そら来た」とぼやいた。
 実のところこの話は、教室だけでなく、放課後の美術室でも何度も聞かされていたのだった。
「それは、このノートです。白紙にしか見えないでしょう。真新しくもないし、デザインも冴えていないでしょう。しかし、一番価値があるのです。何故なら、いくらでもその内容によって価値を高めることができるからです。しかも、記さない限りにおいては複製はできず、希少性という面からも最高ということになるでしょう」
「俺らも同じってことっすよね」
「まさにその通りです。いいですか。皆さんはまっさらなノートです。決して自分に限界を作らず、もっとも価値のある存在を目指して頑張っていきましょう」
 と、こういった感じで、樋口の話は終わるのが常だった。
 ごもっともだが、良く聞くタイプの訓話であって、大して真新しくはない。
 しかも面白くもないわけだから、高階はかなり必死に「真面目に聞いているフリ」をし続けなくてはならなかった。
 本当に真剣に聞いていたのは、せいぜい岡田ぐらいである。
 岡田は真面目で優しい少年だったが、とにかく要領が悪く不器用だった。
 もし彼に美術の才能があったなら、話半分、いや話五分の一ぐらいには樋口の言葉に耳を傾ける気にもなったのだろうが、自分よりも倍は部活に通い詰めているのに一向に上手くならない岡田の様子を見ているだけで、「まっさらなノート」というのが甘い理想に成り立ったものでしかないと気付くことができた。

 

-ノンジャンル
-, , ,


コメントを残す

おすすめ作品