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ミステリー・サスペンス・ハードボイルド

卵と探偵

   

 

☆☆☆

 
 経費としてもらった金で水道ガス光熱費を支払った珠里は、夜のオープンと同時にフェリチータに向かうとセンセーを待った。解答を告げ、残りの八万をもらうためが第一目的だったが、それよりも面倒くさいことから解放されたい思いが強かった。
 だが、待てど暮らせど来ない。期限の十時はとっくに過ぎて、短針がてっぺんを滑り落ちそうだ。
「珍しいわねえ。今晩は不発かしら」
 手持ち無沙汰にメモ帳を広げる珠里を見かねてアンナさんが「サービスよ」と瓶入りソーダを一本くれた。ちびりちびりやりながら待っていたがついに日付をまたいでしまった。水曜という中途半端な曜日だからか、珠里の他に客はいない。
 がらんとした店内でとろとろしたジャズだけが、惨めったらしくかかっている。
 突然すべてがどうでもよくなった。そもそも珠里にはこんなことをしている暇はないのだ。稼がねば食っていけない。たかだか八万のためにソープの面接も断って、いったいなにをやっているのか。
(ばっかじゃないのあたし)
 目が覚めたような思いで、ソーダを飲み干す。
「ごちそうさま」
「あら帰るの?」
 美沙にもノジリにももう二度と会うことはないだろう。くだらない探偵ごっこに興じてしまった自分の馬鹿さ加減に呆れ、腰を上げた。
「うん。あのセンセーが来たら、あんたの職業は作家だって言っておいて。お金はいらないから。それじゃ」
 立ち上がった珠里を無理やり押しとどめたのは、フェリチータのドアを開けた人物だった。相変わらず死に神のような陰気さをまとったノジリが影のように立っている。なにかを燃やしたような妙な臭いが彼から漂って、珠里の鼻先をかすめた。
 しかめっ面のまま、珠里はドスの効いた恐ろしく低い声で詰問した。
「……タイムリミットより三時間も遅い気がするんだけど、あたしの勘違いだった?」
「答えが分かったようだね。聞こうか」
 浮かした腰を下ろせと手で指示され、嫌々ながらも従う。
 終始ノジリのペースだった。
 ウィスキーをとアンナさんに注文したセンセーは、カウンターに陣取る珠里に向き直った。キープボトルから琥珀色の液体が注がれて、供される。
「答え分かったよ。作家なんでしょ。ノジリセンセー」
 グラスを傾け、香りを味わったセンセーは小さく、だがしっかりと頷いた。
「そうだ。筆名は?」
「辻野ヨシキ。美しい樹って書く方の」
 すると先生は、この男には珍しく苦笑した。
「美沙くんに会ったね。今は彼が辻野みきだ」
 いい作家になった。
 そういうセンセーの口振りは苦い物を噛みしめるようで、珠里はいささか不機嫌になった。言いたいことがあるならはっきりしろと唇をひん曲げる。
 だが、結局のところ言わずじまいだったのは、この晩のセンセーがなにか思い詰めたところがあったからだろう。
「……あのさ、センセー。美沙から頼まれたんだけど──」
 飲み終わったサイダーの瓶を手の中で転がしながら、珠里は美沙から頼まれていたことを告げた。さきほど探偵ごっこは止めようと思ったばかりなのに、ついつい口をついて出てしまった。
 美沙が珠里をお人好しと評したときの悲しげな笑顔が浮かぶ。
(やめやめ! お人好しなんかじゃないっての!)
 溜息一つで打ち消して、身を乗り出す。
「私がなんで書けなくなったか、か」
「うん。なんで? 美沙は書いて欲しいって」
 ふんとセンセーが鼻で笑う。それは、美沙を嘲《あざけ》るのではなく無様な自分を笑っているように珠里には思えた。
 センセーはそれほど書くのが嫌なのだろうか。
 だとすれば、辻野美樹の名を捨てたくないというのはどういうことだろうか。
 珠里は食ってかかるように尋ねた。
「もう書けないの? だから辻野ヨシキの名前をあげたの? 印税入ってないんでしょ? なのになんでこんなにお金くれるの?」
「あの名前は人にやれるものではない。私の命だ。生活に困らない程度には食って行けてる。君に金をやるのは道楽だ」
「なにそれ」
「私は、許されてないんだ」
「は?」
 突然の言葉に面食らった珠里に、センセーはあの死に神みたいな嫌な笑みを浮かべた。
「では次の問題といこう。私が書けなくなった理由を探ってみてくれ。期間は特に設けない。これだと思う理由を教えてくれ。次は百万をやる──今回の報酬はこれだ」

 

-ミステリー・サスペンス・ハードボイルド
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