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ミステリー・サスペンス・ハードボイルド

卵と探偵

   

 カツカツと安っぽいヒールを鳴らして走りながら、珠里の胸中は複雑に渦巻いていた。
(センセーヤバイ。すっごい嫌な予感する。早くしないと)
 嫌な考えが頭を巡り、それが原動力となって彼女の歩みは遅くなるどころか速くなって、しまいには全力疾走になった。
 春の晩だというのに、今晩はやけに暖かく初夏のようだった。
 センセーのアパートに辿り着くまでに、珠里のメイクははげてファンデーションがあらかた落ちていた。息を切らし、明かりが灯っている部屋を表から見た。ワンフロアに三部屋。計九部屋のうち、明かりが付いてるのは一階の真ん中の部屋と二階の角部屋、そして三階の角部屋だった。
 迷うことなく三階に突進する。執筆に集中する人間が──おまけにセンセーのように気性の荒い人間が──上の階の足音が聞こえる一階二階に住むはずはない。はたして303に辿り着くと、野尻の表札は出ていなかったが、玄関の隙間からもれる線香の臭いで当たりだと分かった。
 古ぼけたチャイムを押す。ピンポーンと中でも反響したが、応答はなかった。
「センセー! センセー! いるんでしょ! あたしセンセーが書けない理由分かった!」
 駆けている間中、ずっとぐるぐる渦巻いていた答えめいたものをドア越しに叫んだ。
 届けと願って。
「辻野美樹の名前が命だっていうのは、奥さんの真季子さんと一緒に書いてたからだね! でも真季子さんが亡くなって、センセーは書けなくなった。だって喧嘩する相手が……ううん、作品について話し合える人がいなくなったから! だからセンセーは書けなくなった! でも、六年も悲しんでてもセンセーは作家だった。真季子さんを乗り越えちゃった! だから──」
 鉄製のドアノブがゆっくりと回転し、逆光の中に沈むセンセーが──辻野美樹が姿を現した。息を切らした珠里が、ゆっくりと手を下ろす。
「センセー」
 辻野美樹の顔を見た珠里が、真っ青になって震えた。辻野美樹は、今までにないほど透きとおった面差しをしていた。身なりもきちんとしている。彼の背後には、くるぶしが埋まるほど書き散らかした原稿用紙と微笑んだ真季子の遺影と遺骨、一本だけ焚かれた線香。そして──
「センセー、駄目だよ。死んじゃ駄目だよ!」
 鴨居からロープがぶら下がっていた。
 リクルートスーツの珠里が、辻野美樹の胸ぐらを掴むと彼は「なかに入りなさい」と招き入れた。その声までも優しさに溢れていて、珠里は泣きたくなった。
(やっぱりセンセーは死ぬつもりなんだ。あたしが来なけりゃ、首吊ってた……)
 立てられた線香の先端から細い煙がこぼれ、宙で渦を巻いている。
 辻野美樹は原稿用紙をすべて片付け、真季子の遺影と遺骨を前に正座する。珠里も彼の対面におずおずと腰を下ろした。辻野美樹は、どこから取り出したのか分厚い茶封筒を取り出した。
「約束どおり、報酬だ。受け取りなさい」
「いらない。まだ分かってないことがあるから。それが分かったら、もらう」
 なんでこんなことになったんだろうなんて気持ちはすでに微塵もなかった。
 ただ、この人を止めなければならない、その思いで必死だった。
 美人局をやっていたときには人の生き死になんてテレビやスマホの向こうのことで、どうでもよかった。
 でも、目の前に、手を伸ばせば助けられるところにいる人が死ぬのは気に食わなかった。
「君が来たのは、美沙くんから電話があったからだね」
 放り出された携帯にも家電にも留守電のランプが灯っている。
「……これから死ぬから出なかったの?」
「そうじゃない。原稿を書ききるのに必死だっただけだ。気の早い編集者がもう告知を打ったらしい」
 ほらと辻野美樹が指差した先には、手書き原稿がファックスの下の床にべろべろと吐き出されている。最後の一枚がするする落ちると、送信完了のメッセージが青くともり、アナウンスが流れた。
 ファックスが沈黙する寸前の、ピー、ピー、ピーという乾いた機械音が二人の間に満ちた。
「そう……これが終わったら死ぬつもりだったんだね……あの結び方はどう見てもマジでしょ」
 鴨居に釣り下げられたロープの結び目を見た珠里が言い放つと、辻野美樹は目を伏せた。フェリチータにいるときの不穏さは微塵《みじん》もなくなり、ただただ穏やかだ。書き切ったことで、憑き物が落ちていた。
「探偵役は面白かったかね?」
「どうだろう。もう少しやってみないと分からないね。センセーは? 百万も出す理由になった?」
「最期くらい、自分の好きに使ったっていいんじゃないかと思ってたよ」
「っていうことはお互いそれほど面白くなかったってことだね。じゃあ、こうしよう。探偵ってさ、最後に謎暴いて犯人の自供ってやつを引き出すでしょ。あれ、しようよ。あたしが間違ってたら、センセー死んでいいよ。死ぬまで見ててあげるから。百万もいらない」
 ふっと辻野美樹──センセーは笑った。
「いいだろう。君の推理を聞かせてくれ」
 一騎打ちだ。
 珠里はそう思った。自然と腹に力が入る。
 メモ帳の内容は、諳《そら》んじることが出来るほど暗記してしまった。
「あたしは探偵じゃないから作法なんて分からない。だから好き勝ってやるよ。──まず書けなくなった理由ね。これは奥さんの真季子さんの死が直接の原因」
「ほう。聞こうか」

 

-ミステリー・サスペンス・ハードボイルド
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