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ミステリー・サスペンス・ハードボイルド

卵と探偵

   

 男はまったく答えないどころか珠里の声すら届いていないようだった。周囲の客の好奇の目がどんどん厳しくなって、こりゃ駄目だ、つまらんとそっぽを向いた。
 周囲の好奇の視線すら手放してしまい、珠里の苛つきは頂点に達した。
 美人局を始めてここまでコケにされたのは初めてだった。だが、反応がない以上、さっさと退散するに限る。
 スマホを取り出すと、さも友達から連絡が来たというように驚いて見せた。
「あ、レイちゃんからメール着た。じゃ、失礼します」
 言って、立ち上がりかけたときだ。
「君は、この本を知っているかね?」
 男は紙ナプキンで赤く染まった口を拭うと、テーブルの上に伏せてあった本を取り上げた。青と黒の境のような色調の表紙に縦にぱっくり割れた卵が描かれている。卵の割れ目がギザギザと尖って、のこぎりのようだった。のこぎりの隙間から割られた文字が飛び出している。
 珠里はそのとき、久しぶりに本という物を見た。しかしそんなことよりも──
(話しかけてきた。脈がある)
 無表情を瞬時に切り替えて、でまかせを言った。
「あ、それ知ってる! 面白いですよね。えと、書いた人は……」
 学校で分からない質問のヒントか答えを欲しがる生徒のように上目遣いで男を見る。
 だが男は珠里を見ることも、答えることもなかった。
 すっと視線を滑らした彼女は、男の手元に隠された作者名を読み取った。
「ツジノマキさん! でしょ!?」
 男がやっぱりなというように鼻で笑った。なぜだか少し寂しげな嘲り方だった。
辻野美樹つじむらよしきだ。この本のタイトルは『The Egg』。辻野の遺作だ」
 男がなにを言い出すか分からず、珠里はなんとかその尻尾を掴もうと躍起になっていた。
「でもでも! 面白かったもん!」
 突き放すような男の失笑に、珠里のまなじりがつり上がった。
 周囲にはべる客たちの見下した視線が鬱陶しい。
「君は少しおつむが弱いようだな。美人局をするならもうちょっとうまくやるんだな」
 言って男は単行本を開くと、薄暗い店内で珠里を無視して読み始めた。
「ざけんなバーカ」
 右のこめかみが熱く疼いた。
 椅子を蹴って立ち上がり、馬鹿にされた小娘は足音高くフェリチータを後にする。
 客が彼女の背を見送りながら、やれやれと嘲笑い、平穏を取り戻したフェリチータに溶けていった。
 春の夜更けはむき出しの肌がひきつるほど寒かった。
 コートを買う金もない珠里は軽装のまま、ずかずかと駅に急いだ。終電も近い駅はぽつりぽつりと客がいる。ここで彼氏と待ち合わせなのだが、すっぽかされたのか来ない。電車賃を持って来てくれる彼氏が来なければ彼女は三駅歩いて帰らなければならなかった。
 丸見えの肩が痛いくらい冷たい。改札がすぐそこという場所で柱の陰に座り込んでいると、ブラのストラップをいやらしい手つきで撫でられた。反射的に珠里は手を振り払い、すっくと立ち上がると背後にいた中年男が仰け反った。いくぶん気圧されたような男が指を三本立てる。
「寒いんじゃない? 一緒にあったまらない?」
 三万でってことだった。
「ざけんな死ねクソがっ」
 男の臑を蹴っ飛ばし、ごつごつ踵を鳴らしながら家路を急ぐ。苛つく珠里の脳裏には、なぜだか男の手に優しく支えられた辻野美樹と『The Egg』の文字が焼き付いて離れなかった。

 

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