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ミステリー・サスペンス・ハードボイルド

卵と探偵

   

【つねに共にある、さいあいの妻・真季子にささぐ】
(へえ。こういうの書くんだ)
 驚きを持ってページを繰る。
 生まれてこの方ファッション雑誌と国語の教科書以外読んだことがない珠里だったが、ひらがなの多い文体は読みやすい。
 カバータイトルは『The Egg』なのに、扉のタイトルでは『われた卵』と記されている。
(こういうのもありなの?)
 まったく分からないまま、珠里は『The Egg』を読み始めた。
 フェリチータのヤニと脂で茶色く変色した柱時計が夜六時を告げる。
 アンナさんは、テーブルの上に逆さまに乗っていた椅子を下ろすと料理の仕込みを始めた。
 男にもらった封筒はポケットにしまわず、カウンターに置きっ放しで、いっとき存在を忘れられていた。
 どのくらい時間が経っただろうか。
 強い夜風が吹き込んで、珠里は顔を上げた。
 あの男が来たと直感的に分かった。
 眇めた目線の先。間違いなく、先日の男が影のようにいた。
 アンナさんがちらりと珠里に目配せし、男にも目配せする。
「カウンター席でいいですか、センセー」
 アンナさんがセンセーの言葉を強調して言った。
(あいつ、センセーなの? なんの?)
 男──センセーが頷く。彼もまた、珠里に気づいたのだ。お互い、因縁の相手とばかりに見つめ合った。もっとも珠里の目つきは生来の気の強さとメイクのけばさも相まって、睨みつけるという言葉が相応しかったが。
「隣、いいかね」
 前回とは逆の言葉をセンセーが発すると、珠里は鼻を鳴らして「どうぞ」と言った。腰を落ち着けた彼は相変わらず着替えているのかいないのか、前回と同じような格好である。そして片手に辻野美樹『The Egg』を持っていた。よくよく見れば何十回も読んでいるに違いないほど、手垢がついていた。
「ほう。その本を読んだかね」
 センセーの口振りは偉そうなのに、ぼそぼそした喋り方でともすれば聞きそびれてしまうほど覇気がない。珠里はかき入れ時でざわつく店内で、じっと耳を傾けた。
「古本屋で見つけてね。あのさ、ツジムラヨシキじゃないよ。ミキだった。まあいいけど」
「ありがとう」
「なにが?」
「君が買ってくれたことにさ」
「なんであんたが感謝するの?」
 言うと、センセーはかすかに笑った。
(うわ、こわっ)
 その笑い方が、死に神が鎌を振るう寸前、みたいな怖い笑みだったので珠里は身を引いた。
 なぜ、この男が感謝するのかさっぱりだったが、珠里は黙っておいた。飲み屋で読むくらい熱烈なファンなのだろうし、ファンというのは怒らせるとろくなことがないのは美人局の経験から知っていた。
「金は受け取ってくれたかね?」
「……受け取れない」
 青い封筒を滑らせると、センセーはちょっとばかり目を見張った。
「美人局は金を取るのが目的だろう? 私がやると言ってるんだから素直に受け取ればいい」
 その言い方にかちんときた。
 ドン! とテーブルに手を叩きつけると、周囲の目も気にせず、あのねえ! と大声を上げた。

 

-ミステリー・サスペンス・ハードボイルド
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