依子の本気汁 1

 教壇に立つ僕に浴びせられた、少女の絶叫。それは、教師というより人間としての、抜き差しならない選択を迫ってきた。

 投げたボールが返ってくるのかどうか。今はまだ分からない。

 

 
「せっ、先生!」

 本田依子ほんだよりこは素っ頓狂な声を上げて、右手を高々とさし上げた。そして僕が「どうした」と問う間もなく、椅子を弾き飛ばす騒々しい音とともに立ち上がった。

 大きく見開かれた目がイっている。25歳の高校教師である僕の脳裏には心ならずも、前夜ホテルのベッドで睦み合った恋人の綾香の顔が浮かび上がった。

「けっ、健司ッ! 好き、好き、好きィィィィ!」

 綾香が騒々しいのは毎度のこととはいえ、昨晩はとりわけ辟易させられた。

 確かに本田の顔は、絶頂を迎えた瞬間の綾香に似ていなくもなかったのだが、僕が今いるのはホテルのベッドではなく教室の教壇上であり、対峙している相手は生徒だ。不埒な連想自体が懲戒処分に値すると瞬時に反省した。

 そして本田は心持ち頭をのけぞらせ、餌をねだる池の鯉さながらに口をパクパクさせながら、息を喘がせている。その様子は、ホラー映画に登場する不運な若い女性が、まさに悲鳴をBurstさせる2秒前といった観を呈しており、さらに付け加えるならば、本田依子のキャラからしてコミカルな展開はほとんど期待できず、純度100%ともいうべき惨劇へなだれ込むこと必至とも予想させられる。

 おい本田。お前、真昼間から何をやろうとしている。この教室に血の雨でも降らせようというのか。残念ながら僕は至極平凡な男性教師で、ハリウッド映画で大立ち回りを演ずるような気の利いたヒーロー属性を期待されても無理だし、さもなければ僕を血祭りにあげるというのも勘弁してもらいたい。……などと考えてしまう僕は、やはり教師の自覚が足りないのではという悔悟の念が脳裏をよぎったことは否めない。

 この間、ほんの3秒程度。

 遂に臨界点が訪れ、絶叫が炸裂した。高2女子の爆発を、教壇に立つ僕は正面から浴びた。

「ほっ、本気汁を出すには、どうしたら、いいんですかっ!!」

 自らの爆発的事象を担任に浴びせた少女は、椅子が机にぶつかる騒音をまき散らしつつ身を翻し、教室の出口へ駆け出す。とっさに僕も反応した。教室には、教壇の横にも出入り口があるのだ。僕はそこから飛び出して本田の後を追った。

「待て! おい本田!」
「いやああああああああ!」

 これをまさに、絹を裂くような悲鳴というのだろうか。廊下に響き渡る高2女子の叫びは、天にちゅうし雲を呼び、雨を孕まんとする……いや、僕のクラスで孕まないでくれ。他のクラスなら構わないが。

 まさかお前、孕んだわけじゃないよな? 急激な運動は母体に、などと脳内に噴き上がる雑音を振り払いながら僕は、何とか本田に追いついた。3階に上がる階段の一歩手前だった。
 

 
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