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ラブストーリー

オクターヴ上げて奏でる[1] ポロネーズ

   2017年12月11日  

 上品にドレスアップした女性がバイオリンを持ってステージの袖から出てくると、気立ての良い拍手の音がホールに鳴り響いている。続いてもう一人女性が表れると、客席にお辞儀をしてピアノ椅子に座った。
 舞台の真向かいにいるものだから、バイオリンの女性が真剣な面持ちになるのが良くわかる。
 演奏が始まると、崇の言っていた音がもろに聴こえるの意味は分からないが、目の前で演奏を聴くのは、こちらも緊張してしまう。
 そもそも何の曲なのかも分からないから、この空気をどう過ごせばよいのかに戸惑った。寝てしまうには、あまりにも無礼な席だ。隣の崇は相変わらずの恰好で、口元に無意味な動きをさせながら視線を演奏者に向けている。
 ピアノを伴奏にして、『どうぞお眠り下さい。』と言わんばかりに緩やかに鳴り響くバイオリンの音は、一体何という曲だろう。……と思いながらプログラムを見ると、《眠れる森の美女より『いつか夢で』》と書いてある。
 彼女の思考では、学園祭に来る観客に合わせたポピュラーミュージックを選んだつもりなのだろう。……しかし、僕には題名に相応しい、子守歌にしか聴こえない。とにかく眠気眼が閉じぬように、息を吸ったり吐いたりを繰り返して気を紛らわせた。
 チェロの演奏もフルートの演奏も、僕にとっては退屈にすぎなかったが、彩乃さんが舞台に出てくると、知っている人を見ればそれだけで目が覚めた。
 肩を見せた紺色のドレスを着て、すらりと背の高い姿が更に大人びて見える。目が合うと、彩乃さんは僕に向かってニコリと微笑んだ。
 鍵盤に向かい一呼吸するのが見えると、そっと左手を鍵盤に添えている。それを、おしとやかな様子に見ていれば、ホールには相反した力強い音が鳴り響いた。
 僕には、ただ無造作に鍵盤を押していると思うほど、テンポの速いメロディーが流れている。何という曲なのか気になってプログラムを見ると、《幻想即興曲・フレデリック・ショパン》と書いてある。
 音楽室以外でピアノの生演奏を聴くのも初めてだし、彩乃さんがピアノを弾く姿を見るのも初めてだ。
 演奏が上手いのか、どうなのかも分からず、ただ、その雰囲気に圧倒されていると、嵐の中を駆け回るようなメロディーから変わり、雨上がりに迎えた朝を思わせる穏やかなメロディーに会場が包まれていた。
 そんな雰囲気の中、僕は次のプログラムが気になった。
《英雄ポロネーズ・フレデリック・ショパン》と書いている。演奏者は相原奏子。
 この曲と同じ作曲者だ。題名は聴いたこともない曲だが、崇は彩乃さんの演奏が相原奏子の前で良かったと言っていたから、同じ作曲家の曲を演奏していることが、僕には、彩乃さんが奏子という女に対して、負けん気になっているように思えた。
 彩乃さんがピアノを弾く指先が、音楽というよりも技の披露に見えた。だが、そんなことを考えているのは、きっと僕だけであり、演奏が終わると彩乃さん称える拍手の音が鳴り響いていた。
 
 拍手が鳴りやむと彩乃さんは袖に引き下がり、続いて相原奏子が姿を見せた。
「あの子?凄いの。」
「そう、天才。」
 振り返って顔を見ることはできないが、ヒソヒソと話している中年女性の声が聞こえる。隣の崇にも聞こえたのか、ニヤニヤと笑っている。
 黒いドレス姿に、この前は結んであった髪が解かれていて、傷んでいると思っていた髪は、胸元まで下ろされたソバージュのロングヘア―になっている。
 彼女は会場の観客に目を配ることはなく、真っ直ぐな眼差しのまま一礼すると、落ち着いた様子で、ピアノ椅子に腰を掛けた。何やら口ずさんでいる様子。鍵盤に指を添えると、彼女が勢いよく首を振るのを合図に、落雷のような重低音が客席に鳴り響いた。

 ピアノを弾く手が鍵盤の上を軽やかに走り回っているようだが、指先は音に合わせて奇妙な動きを見せている。
 客席に響く音が次第に大きくなり軽やかな曲調に変わると、それは僕も聴いたことのあるメロディーだった。
 飛び跳ねるようなテンポのメロディーを聴いていると、僕はその音に引き込まれていた。彼女の顔を見ると、微笑みながら音に合わせて口ずさんでいる様子。
 
 彩乃さんの演奏とは全く違うことが、素人の僕にも分かった。技術の違いが分かったというよりも、彩乃さんが弾くピアノは技の披露に見えたが、彼女の弾くピアノは指が鍵盤の上で遊んでいるようだ。
 そして何よりも違うのは表情だ。彩乃さんはピアノを弾き出すと、とても険しい顔つきを見せていたが、相原奏子の表情は常に穏やかで、メロディーに合わせて揺れ動く仕草は、体全体で演奏を楽しんでいるのが伝わってくる。
 こういう人たちには当たり前のことかもしれないが、楽譜など見ている様子がない。たまに天井を見上げているのが、彼女には音が形になって見えていて、宙に舞うのを眺めているように見える。その音は、僕の体にも入り込むように伝わっていた。
 とにかく僕は圧倒されていた。何に圧倒されているのか分からないが、このような音楽の生演奏を初めて聴いたからではないだろう。彩乃さんの演奏だって、その前の人達だって聴いたところで驚きもなかったが、この演奏だけに心が頷いた。このホールに響き渡っているはずの音が、僕だけに鳴り響いているようだ。そんな彼女の演奏は、芸術というよりも人の心を虜にする奇術に思えた。
 
 演奏が終わると、拍手の音に紛れて、あちらこちらから、「ブラボー」と声が聞こえる。彼女は立ち上がり一礼すると、毅然とした態度で舞台袖に消えていった。
 ピアノの演奏などまともに聴いたことのない僕でも、彼女が傑出した人間であるのが分かった。

 

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