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歴史・時代

大正恋夢譚 〜萩〜 <前>

   

『ねえ、銀さん』
『なんでしょう』
『あなた……一体、何者?』

小説版『東京探偵小町』外伝
―ニュアージュ&縞―

Illustration:Dite

 

 金茶の毛並みに映える美しい虎縞、イブニング・エメラルドを思わせる明るい黄緑色の瞳。僕がその御婦人と出会ったのは、中天にかかる月がおぼろにかすむ、妖しい春の宵でした。
 散り残る夜桜の下、見返りざまに送られてきた流し目が、あまりに艶めいていて。ほんの気晴らし程度の散歩のつもりが、その御婦人に出会ってしまったがために、気がついたら東の空が白々としていたのです。
 勝手な行動は慎むように?
 ええ、もちろん、よーくわかっておりますとも。
 でも、御主人さまも、常々おっしゃっているではありませんか。御婦人からの誘いを断るものではない、女性に恥をかかせるようなことをしてならないと。僕は長らく御主人さまの薫陶を受けて参りましたからね、その教えに従ったまでのことです。
 御婦人は、僕を毛並みの色にちなんで「銀さん」と呼んで下さいました。僕は、親愛と憧憬を込めて「お縞姐さん」と。お縞姐さんにはもうひとつ、「ハナ」という愛らしい呼び名もあったのですが、僕はその美しい虎縞にちなんだ「縞」という名でお呼びしたかったのです。
 あれは、いつのことだったでしょう。
 御主人さまは、帝都にあまたある綺羅業のなかでも、新橋や柳橋の名妓たちは深情けながらも客に媚びず、気風の良さと負けん気と、粋な物腰で声価を高めているのだとおっしゃいましたよね。僕の敬愛するお縞姐さんもまた、そのような御婦人なのです。姿かたちの良さは言うまでもなく、その心意気や情愛の深さとでも言うべきものが。
 芸者の置屋に生まれ、わけあってところ替えをするまでは脂粉漂う色町の空気を吸って育ったせいか、お縞姐さんの立ち居振る舞いは、まさに新橋の芸者もかくやといったところでした。そうです、御主人さまが思っていらっしゃる通りの御婦人だと言って良いと思いますよ。
 ですから、ね、今夜は御主人さまに、ひとつお願いがあるのです。いつも真心を込めて精一杯お仕えしているのですから――違うとは言わせませんよ、御主人さま――たまには、僕のささやかな望みを叶えて下さっても良いでしょう? そのかわり今夜は、どんなお言いつけにも従いますから。
 本当ですか?
 ありがとうございます!
 いいえ、「お願い」と言っても、別に難しいことではありません。御主人さまなら、それこそ朝飯前ですとも。御主人さまのお力を、ほんの少しだけ、お縞姐さんに分け与えて頂きたいのです。
 あと二日でこの街を離れてしまうお縞姐さんの、たったひとつの気がかり。それは、お縞姐さんに「縞」という名前をつけてくれた、一人の少年の行く末です。お縞姐さんは、自分をかわいがってくれたその少年に、ひとことでいいから最後の挨拶をしていきたいと言うのです。
 あちらに着くか、こちらに残るかで、お縞姐さんも相当迷ったことでしょう。お縞姐さんにとっては、「ハナ」という名を取るか、「縞」という名で生きて行くかの選択でもあったからです。

 

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