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恋愛 / ラブ・ストーリー

オクターヴ上げて奏でる[7] バラッド

   2018年1月15日  

過去に受けた性的暴行を彰に話した奏子。
二人は互いのことを受け入れて交際を続けるが、自分以外の男に抱かれたことのある奏子に対して、彰の嫉妬心は強くなっていた。

 

「ねぇ奏子、最近それ、何やってるの?」
 手のひらに『人』という字を書く。一時間に一回、それを飲み込む。いつでも彼のことを考えているように、それを僕だと思って飲み込むようにと、彰君から言われている。
「あ、これ、……何でもない。ほら、お呪いみたいなもの?」
 そう言って彩乃には誤魔化したが、彼は、これが緊張をほぐすためのお呪いだと知っているのだろうか。……
「毎度、毎度、何を緊張しているのよ。大衆の面前であんなことしてたくせに。」
 あの日のことを思い出せば、顔から火が出てしまいそうだ。けれど、私は生まれて初めて、自分が女であるのを実感した日だった。
 そして、私の過去を受け止めてくれた彼が苦しまぬように、できることは全てしようと思った。
 生活の大半に彼のことが組み込まれるようになった。朝の電車、休み時間の度にくるポケベルのメッセージ、放課後のデート、夜の電話。そして、今していることも、その一つ。
 彼は多分、嫉妬深い。他の男性がどうなのか知らないが、父が母に、あのようなことを言っているのは見たことがない。
 教室には男が何人いるだとか、隣の席は男か女かとか、ピアノの先生は男性なのかとか。それが煩わしく思える時もあるが、その嫉妬を生んでいるのは、私の過去が原因だろう。
 昨日に至っては、血の通っていないものにまで嫉妬していた。ピアノと僕の、どっちが大切なのと。
 そんな話は私にとって、食べるのと飲むのはどっちが大切か訊かれているようなこと。
 それでも今の私には彼の存在が無くてはならないものだ。ピアノだって彼がいなければ、とても身に入らない。
 どちらかなんて選べないことはあるが、母を失った時の気持ちと、彼を失うことを考えた気持ちは同じだった。

 校内選考では、彼に私の気持ちが届くように願いながらピアノを弾いた。彼と離れたくないと思う気持ちを、音の一つ一つに込めて鍵盤を叩いた。
 神様は時々、気まぐれなことをする。不幸の底に陥れたかと思えば、ちゃんと私の願いを聞いてくれたりもする。
 だから彼が私を抱きしめてくれた時は、神様はきっと、他の誰かに恵むはずの幸せを、私に与え間違えたんだと思った。
 そして今日も、彼は校門の前で帰る私を待っている。
「ごめん、……来てもらったけど、帰ってからレッスンがあるの。」
「知ってるよ。僕よりも、ピアノの方が大切なんだもんね。」
「だから、そういうことじゃなくて、……」
 昨日は、この件で別れ話にまで持ち込まれた。『お互いを一番大切と思えないなら、別れた方がいいね。』なんて言ってくる。
『僕は奏子さん以上に大切なものなんてない。あなたの為なら何でもできる』なんて言ってくるから、それを上回る言葉なんて私にはない。何でもできるなら、軽々しく別れ話を出さないでよ。……なんて、また、ひねくれたことを思いつくだけ。けれど、そんなことを口にしたら大変なことになる。きっと、この屁理屈女と罵られるだろう。
「いいよ。ただ、帰り道に寄っただけだから。」
 その言葉を聞いて、私は安心して肩を撫で下ろした。こうやって二人で過ごす時間の彼は、今までと変わらない優しい彰君だった。

 

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