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歴史・時代

東京探偵小町 第九話「約束の子」 <3>

   

「この手はどうした?」
「お昼休みに遊んでいたら、廊下の窓枠でひっかいてしまって」
「それで怪我を? とんだお転婆だな」

小説版『東京探偵小町
第三部 ―魔人編―

Illustration:Dite

 

 右の手のひらに最初は御祇島のくちびるを、次にそれではない何か別のものを感じて、時枝はビクリと体を震わせた。
「せん……せい」
「消毒ですよ」
 御祇島の言葉に疑問を感じながらも、なぜか手を振り払うことができない。時枝は御祇島が自分の血を舐め取っているのを、どこか恍惚としたような、焦点の定まりきらない目でぼんやりと見つめていた。
 くすぐったさと羞恥、それを凌駕する陶酔にも似た心地に、怪我の痛みが思考もろとも曖昧になっていく。やがて傷口の近くに、チクリとした別の痛みを覚えても、時枝は動けなかった。
 新しい傷口からあふれた緋色の珠が、時枝の手のひらを伝い、御祇島のくちびるへと消えていく。御祇島は出血の止まりかけた時枝の右手を捕らえたまま、スッと立ち上がり、みずからの右手を時枝の頬に添えた。
「君の血は甘い。そして温かいな」
 顔を上げるようにと促された時枝の瞳に、御祇島の姿が大きく映し出される。御祇島は頬にあった手をそのまま首筋へと滑らせると、熱く脈打つあたりを愛おしそうに撫で上げた。
 そのかすかな刺激に、意識をどこかに置いてきてしまった時枝の体だけが、素直な反応を見せる。その姿と、いまだ舌に残る時枝の「味」に、御祇島は眩暈がしそうなほどの強い渇きを覚えた。
「さあ……いい子だから良くお聞き。君は今日、友人から離れて、一人で下校するのだよ。そうして」
 そこまで口にして、廊下から聞こえてきた足音に小さく舌打ちをする。御祇島は出血の止まった時枝の右手を再びハンケチで覆い、時枝の目の前でパチリと指を鳴らした。その音に続いて救護室の引き戸が開けられ、外出していた老シスターが救護室に戻ってきた。
「シスター江藤。良かった、助かりました」
「まあ、どうなさいました、御祇島先生」
「四年級西組の永原さんが、先ほど手に小さな怪我を……診てやって頂けませんか」
「まあまあ、それは大変」
 記憶すらぼんやりと霞む奇妙な夢心地から醒めた時枝が、慌てて椅子から立ち上がり、「お願いします」と頭を下げる。老シスターは荷物を置くと、すぐに薬品棚に向かった。
 御祇島はいかにも「安心した」という表情を浮かべると、時枝を老シスターにまかせ、先に教え子たちの待つ体操場に戻った。そこから遅れること約五分、右の手のひらにゴム絆創膏を貼った時枝が体操場に現れ、級友たちをほっとさせた。
 もともとの傷が小さかったこともあり、時枝はすぐにダンスの授業に戻った。いつも通りの笑顔を振りまく時枝に、みどりも胸をなでおろしたが、時枝自身はなんだか靄に包まれたような、足もとすら覚束ない不安な気持ちを抱えていた。
 そのせいだろうか。
 清掃が終わり、下校時刻となったとき、時枝はふいに連れ立って歩いていた少女たちの一団から離れた。
「時枝さま? どうかさないまして?」
「あの……ごめんね、みどりさん。あたし、ちょっと……用を……思い、出したの」
「まあ、そうですの。わたくしでよろしければ、お供しますわ」
「ううん。一人で……大丈夫」
 不十分ながらも、御祇島の掛けた暗示が効いているのだろう。時枝の脳内には、「今日は一人で下校する」ということだけが強烈に刻み込まれていた。
「ごめんね、一緒に帰れなくて…………」
「いいえ、わたくしのことなど気になさらないで下さいな。いつもの帰り道ですもの。それより、時枝さまこそお気をつけて」
「わかったわ……それじゃあ、また明日ね」
「ええ。ごきげんよう、時枝さま」

 

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