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歴史・時代

東京探偵小町 第十話「闇の囁き」 <1>

   

「兄上は『誰』なのですか」
「馬鹿なことを聞く。わたしは逸見晃彦だ」
「違う!!」

小説版『東京探偵小町
第三部 ―魔人編―

Illustration:Dite

 

 あの少女は、話を聞きにやってくるだろうか。
 時枝と停車場で別れてから、「兄」の皮を被った主君に付き従って帰宅するまで、リヒトは同じことを考え続けていた。先ほど自分が語って聞かせた話は、真実であるには違いないが、亡き父を慕い続ける時枝の心をひどく傷つけたことだろう。
「……………………永原、時枝」
 今にも泣きそうな顔をして「信じない」と叫んだ時枝の声が、耳から離れない。リヒトは沈鬱な面持ちで自室の扉を開けると、机と椅子、簡素な寝台と洋箪笥があるだけの寒々とした部屋で着替えを済ませた。
 その途中、主君から新たに与えられた青痣の部分に激しい痛みを覚え、よろめくようにして椅子に掛ける。こうして毎日のように繰り返される暴力には、もう慣れたはずだった。少なくとも、慣れた「ふり」はできるようになっていた。だが、今度はそれが主君の不興を買うらしい。
 リヒトは左のまぶたを伏せ、辛いときの支えとしている人々の顔を思い浮かべると、今日一日の活動で緩んだ包帯を外した。場所を変えては増減を繰り返す傷の具合を確かめ、かすかなため息をつく。傷の治りが遅いのは、体力が限界に近づいているからだった。
「…………あと三日。せめて二日」
 単なる従僕ではなく、「使い魔」として生かされているリヒトは、自分の命を繋いでいるものが、水や食物ではないことを理解していた。月に数回、主君から直接「糧」を注ぎ込んでもらわなければ、水や食物では決して満たすことのできない、死よりも恐ろしい飢えがやってくる。
 リヒトは、どんな痛みや苦しみよりも、この飢えを恐れていた。この赤坂の邸に連れて来られ、「逸見リヒト輝彦」としての姿を与えられたときに味わった、気が狂いそうな猛烈な飢え。それは単なる空腹感ではなく、凄まじい破壊衝動を伴う壮絶な飢餓感だった。
 なんでもいい、どんなものでも構わない、何か命あるものをこの手に捕らえ、引き裂き、獲物が上げる断末魔の悲鳴を聞きながら骨の一片まで喰らい尽くしてやりたい――そんな激しい欲望が、器に一滴ずつ水が溜まっていくように身の内を満たして行くのを、リヒトは閉じ込められた地下室のなかで震えながら感じていた。
 狂えるものなら、もう完全に狂ってしまいたい。そうでなければ、この手で誰かを殺してしまう前に殺して欲しい。
 そう願い続けた日々の果てに与えられたのが、主君が「我らの糧」と呼ぶ「他者の命」だった。そのときの光景を思い出し、リヒトは灰色の布眼帯で覆われた右眼を押さえた。リヒトが初めて飲み込まされた「糧」は、リヒトが幼い時分を過ごした軍犬養成所の同期であり、リヒトが隻眼になる原因を作った、六号という名の軍犬の命だった。
「何をしている」
 突然、なんの気配も前置きもなく声をかけられ、リヒトは全身を強張らせた。慌てて椅子から立ち上がろうとするものの、それよりも早く胸倉を掴まれ、リヒトの表情に怯えが走った。
「書斎に来るようにと言ったのが聞こえなかったのか。主君を待たせるとは、貴様も偉くなったものだな」

 

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