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歴史・時代

大正恋夢譚 〜木春菊〜 <前>

   

「あの、こんな時間に突然すみません! 時枝さんに差し上げたいものがありまして」
「あたしに? 嬉しい、何かしらん」

小説版『東京探偵小町』外伝
―柏田一平&永原時枝―

Illustration:Dite

 

 長く子に恵まれなかった母が、辛抱強く湯治に通った末にやっと姉を授かったとき、父の喜びようは大変なものだったという。
 父は農家の四男で継ぐ家もなく、農繁期以外は建具屋として口に糊していたから、子は出来ずとも良いと思っていたらしい。姉の誕生を機に、はずみがついたように僕が生まれたときは、祖父母が盛大に祝ってくれたとのことだった。
 だが、姉と僕とを立て続けに産むのは、四十路に近かった母の体には、やはり相当の負担だったに違いない。産後の肥立ちも悪く、子育てに無理をしたせいもあって、母は僕が尋常小学校に上がるのを見届けるや、優しい思い出だけを残して世を去った。
 早すぎる母の死後、父はかなり気落ちしたが、後添えももらわず今も一人でやっている。いずれ、父の面倒をどう見ていくかを考えなくてはならないのだが、まだ先のことだからと、僕は姉がたまに顔を見に行くのに任せていた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいまし。一平さん、小包が届いておりましたよ」
「ああ、はい。ありがとうございます」
 母亡きあと、母代わりとなってなにくれとなく僕の世話を焼いてくれた姉は、僕の中学卒業を待って嫁いだ。伯父が持ってきた縁談は小さいながらも堅実にやっている文具店の後継ぎで、良縁だったらしく、姉は間もなく元気な男児を授かり、一家で仲睦まじくやっている。
 僕のほうはと言えば、中学卒業と同時に東京市の警官になり、市外から市内へと越してきた。以来八年間、親戚筋に当たる老夫婦宅の一室に間借りして暮らしている。僕が借りているのは、離れとは言えないまでも離れ風の造りになっている六畳間で、仕事柄、帰りが不規則な僕にはありがたかった。
「正岡……ああ、姉さんか」
 小包の差出人を見ると、正岡一子とある。
 ひとつ違いの姉は名を一子と書いて「かずこ」と読み、姉と同じ字を当てられた自分の名前が、子供の頃は恥ずかしかった。だが、それぞれの道を歩きはじめた今は、同じ字が家族の絆であるような気がして、姉の名を目にするたびに温かい気持ちになるのだった。
「一平さん、お夕飯は」
「あ、実はまだなんです」
「良かった。なんとなく食べたくなって、昼にお稲荷さんをこさえたんですよ。一平さんにもと思っていたら、ちょいと作りすぎましてね。お茶の間に用意しておきますから」
「ありがとうございます、頂きます」
 荷物を置いてきますと断って、僕は姉からの小包を手に、部屋に向かった。麻紐をほどき、包み紙を開けていくと、なかから新しい万年筆とネクタイが現れた。添えられた手紙から、甥っ子の元気な様子が伝わってくる。
 だが、手紙の最後にあった一文を見て、僕は慌てて小包みの中身を再確認した。
「帝劇の招待券? たしか今は、なんとかっていう、露西亜の有名な舞踏団が来ているんじゃなかったっけ」
 良く見ると、券に印刷された公演名は露西亜の舞踏団ではなく、その次に掛かるらしい少女歌劇のものだった。
 なんでも万年筆の会社が協賛したとかで、夫婦で文具店を営む姉のもとにも、二枚組の招待券が送られてきたのだという。だが、手の掛かる幼な子を抱えた身では、そうそう遊びに出るわけにもいかない。それで、独り身なら時間もあるだろうと、僕のもとに寄越してきたらしかった。
「姉さん、いくら僕の勤め先が帝劇の隣にあるからって……しかも少女歌劇だなんて」

 

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