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歴史・時代

東京探偵小町 第十二話「あそび歌」 <1>

   

「あっ、わごちゃん、蒼馬くん。二人とも、お仕事お疲れさま」
「ヤーヤー、タジさんのネイロにひかれて、ちいさなエカキさんがでてきましたヨ」

小説版『東京探偵小町
第四部 ―鎮魂編―

Illustration:Dite

 

 警視庁裁判医にして帝大特任教授の逸見晃彦は、もとは将来を嘱望される帝国陸軍軍医だった。西国のとある富家の出身で、岡山中学から旧制第六高校の理科乙類に進学し、京都帝大で医学を修めたあと、東京帝大で改めて陸軍軍医委託学生となった「選良」として知られている。
 逸見が開業医や勤務医ではなく軍医を志すようになったのは、彼を知る人の話によると、京都帝大時代なのだという。東京帝大卒業後は衛生部の軍医見習医官として軍医学校に進み、二等軍医に任官して同期と同じく隊付軍医となった。
 彼が平凡な軍医であったなら、このまま原隊で隊付を続け、衛戍病院勤務と原隊復帰を繰り返して軍歴を終えたことだろう。だが、逸見はその抜きん出た才能に大きな期待が寄せられ、帝大医学部の大学院に派遣されることになった。そこで逸見は解剖学を専攻し、特例中の特例として、さらに教官兼務の在外研究まで認められたのである。
「…………リヒトの胆力は、飼い主譲りというわけか」
 自身の奥底に沈めた「晃彦」が、幾重もの縛鎖を解こうと必死にもがいている。それを感じ取った逸見は、読みかけの学生論文を机に置くと、舶来物の煙草に火を付けざま、口の端をつり上げた。
 明晰な頭脳を讃えられていただけあって、晃彦はかなり早い段階から、自分の置かれた境遇に気づいていた。被弾にも関わらず一命を取り留め、シベリアからの帰還を果たした頃には、「自分ではない自分」が「逸見晃彦」として振る舞っていることをぼんやりと理解しはじめていたが、決定打となったのは、篠突く雨の日のリヒトとの再会だった。
 成犬まで今少しの、まだどこかに幼さを残した目で一心に「自分ではない自分」を見上げるリヒトの姿に、すべてを諦めかけていた晃彦の、内なる闘志が呼び覚まされたらしい。
「貴様を消すことなど造作もないが、そうだな……来年の今時分になってもまだ『起きて』いられたら、もう一度、リヒトに会わせてやろう」
 逸見は宵闇に包まれた実習室の片隅で、紫煙をくゆらせながら、おかしそうに笑った。晃彦がどれほど自身を鼓舞しようとも、その魂を戒める縛鎖は、並の人間には耐えがたいほど重く強固にできている。晃彦のような、目を見張るほどの強い精神力の持ち主でも意識を保つのが精一杯で、それでも一年も経たないうちに精も根も尽き果て、死とさほど変わりない眠りに蝕まれていくのが常だった。
 だが、晃彦は違った。
 全力をもってしても糸のように細く頼りない意識しか保てず、それすら途切れがちになっても、決して諦めなかった。闇の縛鎖に囚われて一年半が過ぎても、晃彦は依然としてそこに在ったのである。
 晃彦は、自身を騙る「誰か」が、愛犬であり弟分でもあったリヒトに暴力を振るうのが我慢ならないのだった。それだけならまだしも、この「誰か」は他者の命を平気で奪う。医師として、また軍人として、他者を救い、守るために生きようとしていた自分の手が他者を殺めていく光景を見るのは、何よりも耐えがたかった。だからこそ晃彦は全力で意識を繋ぎ止め、気力を溜めては、縛鎖を解こうと再びもがき出すのだった。
「馬鹿め」
 そんな晃彦の抵抗をあっさり封じ込めると、逸見は扉のほうにチラリと目をやり、吸い差しの煙草を軍医仲間から贈られた陶器の灰皿に押し付けた。それとほぼ同時に、遠慮がちなノックの音が響き、今秋から逸見研究室に入った医学生が顔をのぞかせた。
「失礼致します。実習室の記録簿を持って参りました」
「御苦労。川添くんだったな、入りたまえ」
 軍医時代から肉眼解剖学の研究に勤しんできたこともあり、逸見は帝大医学部の解剖学講座全般を任されていた。明日からは、医学生ならば避けては通れぬ、人体解剖学実習を指導することになっている。季節柄を考慮して、実習は秋口から初冬にかけてまでの年度初めに行われるのだが、川添はその準備を整えてきたのだった。

 

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