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歴史・時代

東京探偵小町 第十四話「主従二組」 <2>

   

「門前で立ち話など。お知り合いですか?」
「はい。昨日訪ねた氷屋さんです。そこであたし、ブローチを落としてしまって……それを届けて下さったんです」

小説版『東京探偵小町
第四部 ―鎮魂編―

Illustration:Dite

 

 その夜。
 川添商店の氷室で見たアヴェルスからのメッセージに気を取られていたせいか、時枝は寝る間際になって、大切な宿題のあることを思い出した。一週間後に迫った女学院主催の慈善市で、生徒代表の挨拶を述べることになってしまい、その草稿を書いて来るようにと御祇島から言われていたのである。
 当初は五年級の学年総代が最上級生として来場者への感謝の挨拶を述べるはずだったのだが、それがいつのまにやら東組にいる四年級の学年総代に移り、そこからさらに西組に移って、なぜか時枝にお鉢が回って来たのである。挨拶文の考案は良いとしても、取り掛かるのがだいぶ遅くなってしまったため、苦心して草稿を書き上げたときには、とうに日付が変わっていた。
 倫太郎と和豪は、もう一時間も前に時枝に「おやすみ」を告げて、それぞれの寝室に引き取っている。草稿の出来は明日の朝にでも倫太郎に見てもらうとして、今夜はもう休もうと、時枝も寝支度を整えた。
「あ、いっけない」
 その途中で、今日の外出に着けていったブローチを外すのを忘れていたことに気付いた時枝は、慌てて洋箪笥の扉を開け、上海時代のコートを取り出した。
「うそ……ないわ。ここにつけておいたのに」
 コートの胸元を飾っていたのは、伊太利製の七宝焼きのブローチで、少し前に柏田からもらったものである。もしかして、片付けたことを忘れてしまったのだろうかと、上海から持参した木製の小物入れを開けてみるが、そこにもブローチはなかった。
「やだ、どうしよう。どこかに落としてきちゃったのかしらん」
 マーガレットを模した飾らない美しさが、そのまま柏田の優しさを表しているようでもあり、ブローチはすぐに時枝のお気に入りになった。だからこそ今日の外出にも着けていったのだが、失くしたことにさえ気づかなかったとは、とんだ失態だった。
「帰って来て、応接室でお茶をして……………………」
 時枝は洋灯を手に静かに部屋の扉を開けると、寝ている二青年を起こさないように階下に降りた。だが、応接室にも食堂にも、事務室や廊下、台所や洗面室にもブローチはない。日中、外で落としてきた可能性が濃厚になり、時枝はがっくりと肩を落とした。
「どうしよう。柏田さんからもらったブローチなのに」
 今日は電車に乗って四谷の大木戸まで行き、市ヶ谷の閑静な屋敷町を歩いたり雑木林に分け入ったり、帰りはみどりを邸まで送り届けたりと、かなり広範囲に移動している。道端で落としたとしても、雑木林で落としたとしても、探し出すのは困難を極めるだろう。
 時枝はすっかり落ち込んで部屋に戻り、ため息交じりに寝台に腰掛けた。だが、こうしていても、ただ夜が更けていくばかり。明日は週明けの月曜日、疲れを残したまま朝を迎えるわけにはいかないと、時枝は失意のまま布団にもぐり込んだ。
「大木戸の停車場までは、つけていた気がするんだけど…………」
 氷室にブローチが落ちていなかったか、川添に聞くだけ聞いてみよう――そんな思い付きにかすかな希望を託すと、時枝は掛け布団を鼻先まで引っ張り上げて眠りについた。

 翌朝の朝食の席で、時枝がブローチを失くしたことを告げたときだった。事務室に引いてある電話がけたたましく鳴り響き、倫太郎が受話器を取ると、松浦家の家令がみどりの体調不良を告げた。
 いわく、昨夜から微熱が続き、今朝になっても下がらないのだという。幸い、期末試験後の今週は授業が少ないこともあり、大事を取って今日は女学校を欠席するとの連絡を入れてきたのだった。

 

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