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歴史・時代

東京探偵小町 第十七話「燭火礼拝」 <3>

   

「これより大公にお出まし願い、御意向をうかがう。手順と作法は心得ているだろうな」
「はい」

小説版『東京探偵小町
第五部 ―従僕編―

Illustration:Dite

 

 謝罪の言葉を口にするより早く、かなりの衝撃と共に頬が床板にぶつかる。頬骨の痛みをこらえてすぐに立ち上がり、リヒトは姿勢を正して主君を見つめた。
「無様だな」
「申し訳、ありません。兄上」
 今の殴打で癒えたばかりの場所を傷つけたのか、舌の上に血の味が広がる。口の端ににじむ血を汚れた包帯の巻かれたこぶしで拭い、リヒトは改めて、ニュアージュを取り逃がしたことを詫びた。
「あの化け猫を討ち取れなかったのは、単に貴様の技量不足か? それとも、早々に諦めて見逃したのか?」
「いいえ、見逃すつもりなど全くありませんでした。少なくとも、左の肋骨二本と右肩の骨は折れているはずです。以前にそう教えて頂いた通り、砕いたほうの肋骨を再度狙って、腎臓も潰しました。潰した……はずです」
「フン。貴様とそれだけやりあって、なお機敏な動作と簡単な術が使えるほどの精神力が保てたと言うのなら、貴様と同様、何者かの下僕と見て間違いないだろう」
「はい」
「あの猫自体に、さほどの体力はない。おおかた、あの猫の飼い主あたりが、痛手を軽減させる術でも使ってやったのだろう。たかが飼い猫の一匹に、ずいぶん甘い男だな」
 鼻で笑いながら、一分の隙もなくきっちりと締めていたネクタイを緩め、外套を脱いでもなお、血と泥にまみれている使い魔を一瞥する。それに気付いたリヒトの顔に、次は何を言われるのか、何をされるのかという、かすかな脅えが走った。
「飼い主は、女学校で娘どもに歌と踊りを教えていると言ったな。所詮、その程度の惰弱な性質か」
 主従揃って敵ではないと見なしたのだろう、逸見は書斎の椅子に掛けると、あかりもつけずに読みかけの論文に目をやった。
「兄上。あれは兄、上の敵なのでしょうか」
「あの程度では敵にもならん。煩わしい、ただの雑魚だ」
 次の指示を待って直立しているリヒトに背を向け、黙って論文に目を通す。周囲がそう認める、「元軍医の医学者・逸見晃彦」としての体面を保つため、逸見は学内随一の勤勉を装っていた。学内外の各所から持ち込まれる論文や献本の類は後を絶たず、警視庁からの検死依頼もまた、途切れることなくやってくる。あまりの多忙ぶりを見かねて、蒼馬の主治医でもある尾崎が、助太刀を申し出てくるほどだった。
「兄上」
「なんだ」
「何か、御命令は」
 そこで初めて、逸見が横文字の分厚い論文から目を上げ、掛けた椅子ごと振り向いた。
「ない。下がれ」
「…………はい」
 ほっとしたような、そのくせ、どこか立ち去りがたいような顔をしているリヒトを見て、逸見がククッとおかしそうに笑う。逸見は机の上に書類を投げ出すと、椅子から立ち上がり、動かないままのリヒトに手を伸ばした。
「あの絵描きの子供……もはや貴様の目には、ただの糧としてしか映るまい」
「…………っ」
 逸見の手がリヒトの首にふれるや、リヒトがビクリと体を震わせる。まだ数日は「持つ」はずなのに、蒼馬の味と面影が胸に蘇るだだけで、こらえようのない飢餓感が臓腑の底から染み出してくる。なんとか抑え込もうと切れそうなほどにくちびるを噛みしめるものの、逸見はそれを許さず、きつく巻かれた包帯の上から、永遠に癒えることのない傷口にふれた。

 

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