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歴史・時代

東京探偵小町 第二十三話「緋の烙印」 <2>

   

「どうしたのかしらん。みんな遅いわね。わごちゃんはお仕事だから仕方ないとしても……倫ちゃんや蒼馬くんは、そろそろ帰ってきてもおかしくないのに」

小説版『東京探偵小町
第七部 ―灯燭編―

Illustration:Dite

 

 階下から響く時計の鐘の音に、時枝は小声で「七時だわ」とつぶやいた。外はもうすっかり日暮れているが、まだ誰も帰らず、時枝はひとりきりで留守番をしていた。
 倫太郎は郵便局と洋品店に用があると言って、みどりを送りがてら外出。和豪はいつものように実家の道場へ出稽古、蒼馬は昼過ぎに学校へ向かったというのに、まだ下校していなかった。
「どうしたのかしらん。みんな遅いわね」
 カーテンを開けて夜闇が広がる窓の外に目をやり、時枝はふっと息をついた。久々に買って出た夕食の支度も、蒼馬の寝室の用意も、みどりとの交換日記も書き終えてそれぞれの帰りを待っているのだが、いまだに誰の「ただいま」も聞こえてこない。さすがに七時を過ぎて心配になってきたのだろう、時枝はそわそわしながら倫太郎の部屋を出た。
「わごちゃんはお仕事だから仕方ないとしても……倫ちゃんや蒼馬くんは、そろそろ帰ってきてもおかしくないのに」
 まだ梅雨入りはしていないものの、陽が落ちると肌寒さを感じるのは、今日が朝から薄曇りだったせいだろうか。時枝は蒼馬の服装を思い浮かべ、上着を着ていたから大丈夫だろうかと思案しつつ、階段を下りた。
 幼い頃からの虚弱体質で、蒼馬はとかく、朝晩の冷えに弱い。
 夏でも盛夏の頃を除いては薄い上着を手放さないというのだから、昼夜の寒暖差が思いのほか激しい今日のような日は、良く気をつけなければいけないのだった。
「セイラン。倫ちゃんと蒼馬くん、遅いわね」
 一階と二階のあいだを繋ぐ階段の手すりに、まるで見張り番でもするかのようにとまっていた青藍が、時枝の肩にひらりと飛び移る。そんな青藍に時枝が笑顔を向けようとしたところで、玄関の呼び鈴が鳴った。
「やっと帰って来たわ! 蒼馬くんかしらん」
 ことさらに大きな声で返事をした時枝が、急いで階段を駆け下り、玄関へと向かう。青藍もそれに続くが、玄関の扉を開けた先にいたのは、蒼馬ではなかった。
「あ……帝大の尾崎先生!」
「やあ、こんばんは、小町さん。若先生、いるかな」
 そこに立っていたのは、蒼馬ではなく、蒼馬の主治医のひとりである帝大附属医院の尾崎だった。上京当時から蒼馬を診ていたのは涌井という老医師なのだが、最近では特任教授の逸見と助教授の尾崎が蒼馬を診るようになっている。蒼馬が逸見の義弟・リヒトと同学であること、尾崎が多忙な逸見や涌井を気遣ってさまざまな補佐を買って出ていることもあるのだが、蒼馬が尾崎に良く懐いているから、というのが最大の理由であった。
「北辰館のおとみさんに聞いたよ。若先生、今晩からここに泊まり込むんだって?」
「はい。蒼馬くん、帝展に青藍の……この小鳥の絵を描きたいんだそうです。いまが一番、手が空いていて、体調もいいから、下絵を描いてしまいたいんだそうです」
「そうか、小鳥の絵か。若先生らしいな」
 人懐こい青藍が、挨拶がわりとでも言うように、尾崎の肩に飛び乗る。尾崎は驚いたのもつかのま、「これは若先生が気に入るはずだ」と明るく笑って、蒼馬を呼んでくれるようにと頼んだ。
「それが、蒼馬くん、今日は学校へ行っているんです」
「ああ、若先生、美術の助手をやってるんだってね。そうか、まだ学校なんだ」
「そうなんです。もう七時ですから、あたし、ちょっと心配で」

 

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