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歴史・時代

東京探偵小町 第二十三話「緋の烙印」 <4>

   

「セイラン、あたし、蒼馬くんのお迎えに行ってくるわね。
 セイランは、ここでみんなの帰りを待っていてね」

小説版『東京探偵小町
第七部 ―灯燭編―

Illustration:Dite

 

 苦しげにうめく蒼馬を表情に乏しい顔で見下ろすのは、彼を学校に呼びつけた美術教師だった。蒼馬の兄弟子でもある泉水は、息も絶え絶えに苦しむおとうと弟子に救いの手を差し伸べることもなく、黙って蒼馬を見下ろしていた。
「…………なあ、紫月」
 泉水が言葉を発したのは、病弱なおとうと弟子が地面をのたうつことすらできなくなり、眉を寄せたままぐったりと脱力したのを見届けてからだった。
「もう、いいだろう? おまえはその歳で、一流画家に比肩する、いやそれ以上の働きをしてきた。この帝都で、紫月蒼馬を知らないやつなんていやしない。まったくもって大したもんだ、並みの画家じゃ、こうはいかない」
 珍しい褒め言葉も、蒼馬には届かない。
 それにも構わず、泉水は続けた。
「十分だろう。おまえは十分に描いた。子供のくせに、十分すぎるほど描いたじゃないか。死んでも、その名が残るほどに」
 蒼馬の傍らに膝をつき、泉水は蒼馬が取り落とした画帳を拾い上げた。日没間近の薄暗がりのなか、真白の頁を埋める何点もの素描を手早くたどっていく。しばらく草花の写生が続いたあと、女物をまとっていなければ少年に見えそうな、思い切りの良い断髪にした少女の姿が現れた。
「おまえは上手いよ。何を描かせても上手い。おまえなら、こんな落書きでも有り難がって買うやつがごまんといるだろうさ。おまえからしたら、飼い殺しの美術教師になり下がった兄弟子など、さぞかし無能に見えただろうな。そうだ、おまえはわたしをいつも馬鹿にしていた。見下していた。違うか? 違うか?!」
 問い詰めたところで、答える声はない。
 泉水は画帳の両端を握り締めると、それを力任せに引き裂いた。連なる厚紙を片端から破り捨てていく耳障りな音が続き、小間切れになった紙片があたりに散らばる。そのひとつ、ちょうど断髪の少女が描かれた紙片を踏みにじり、その足で、泉水は蒼馬の利き手を踏みつけた。
「おまえの才能は本物だ、それだけは認めてやる。だが、そろそろ代わってくれたっていいだろう。日蔭者の兄弟子に、表に出る機会のひとつくらい、与えてくれたっていいじゃないか。なあ、紫月!」
 蒼馬の手に置いた足にさらなる力を込めて、泉水は血の気のまったくない、おとうと弟子の顔を見つめた。右手を襲っているだろう痛みに、かすかに眉を寄せることしかできない蒼馬を見るにつけ、泉水はこみ上げてくる笑いを抑えることができなかった。
「病弱? 短命? ふん、結構なことだ」
 病ゆえに外遊びを知らぬまま育ってきたおとうと弟子の白い手が、靴底の泥にまみれていく。それを見るともなく見つめる泉水の胸に、ひどく残虐な想いが過ぎった。
 このまま、右手を使い物にならなくしてやろうか。
 ふとした思いつきに、泉水は声を立てて笑った。五指のうち三本を折るだけでも、いや一本でさえ、病む身の蒼馬には大きな痛手となるだろう。泉水は蒼馬の親指に、革靴のかかとを載せ――ふと、足を退けた。どこからか、背筋がゾクリとするような、妙な気配を感じたからだった。
「なんだ…………?」
 あたりを見まわすが、誰の姿も見当たらない。
 だが、何者かの気配は、たしかにそこにある。じりじりと後退しながら、泉水がなおも辺りをうかがっていると、やがて金目柘植の生垣がガサリと動き、一頭の獣が姿を現した。
「お、狼!」
 思わず叫ぶものの、その獣は狼ではなかった。

 

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