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歴史・時代

東京探偵小町 第二十六話「夢幻水鏡」 <1>

   

(幻でも、幽霊でもいい。誰にも信じてもらえなくたっていいの。あの子が無事でいてくれたら)

小説版『東京探偵小町
第八部 ―彷徨編―

Illustration:Dite

 

 その日、いつものように廊下の片隅で授業を受けていた時枝は、これから始まる五限目の教本を胸に、始業の鐘をぼんやりと聞いていた。弱音を吐いてはいないものの、罰される身の辛さは、時枝の想像を超えていた。始業の鐘を鳴らしながら廊下を練り歩く小使いでさえ、時枝がそっと会釈をしても、視線すら投げ掛けようとしないのである。
 手のひらを返したような周囲の冷たさには、もう慣れたはずだったが、飲み込むため息の重さは変わらない。新聞が「麹町野犬事件」と書き立てる事件に巻き込まれて負傷し、ほんの数日間の入院を終えて登校を再開したときから、時枝を取り巻く状況は大きく変わっていた。
(魔女……あたしが、魔女)
 倫太郎やみどりから聞かされるまで、自分に対してそんな中傷があったことなど、まるで知らなかった時枝である。しかも倫太郎は、「魔女」という言葉を使いはじめた卒業生に、談判までしてくれたのだという。倫太郎だけではない、聞けば逸見までが、仲裁に入ってくれたようなのである。
 それでも、時枝を蔑視する雰囲気は変わらなかった。
 変わらないどころか目に見えて悪化し、今では時枝をさりげなく気遣うみどりまでもが、「魔女の味方をする者も魔女」と糾弾され、級友たちから酷い仕打ちを受けているのである。そして副学院長をはじめとする年配のシスターたちもまた、罪の子をかばい立てするみどりに、厳しい目を向けていた。
 なかでも二少女にとって痛手だったのが、日記帳を失ってしまったことだった。時枝の「無言の行」が始まった最初の日に、二少女が手紙のやり取りをするように交換しあっていた藤色の日記帳を、目の前で焼かれてしまったのである。学び舎に私的な日記帳を持参したみどりにも非があるのだが、みどりとて、時枝に課された罰が、これほど厳しいものだとは予想だにしなかったのである。
(魔女の傷……………………)
 古文の授業を聞きながら、時枝は、夏銘仙の袖の上から左腕を押さえた。左肩の少し下に負った切り傷は、縫合を必要とするほどの大きな傷ではあったものの、手術を担当した外科医の腕が良かったおかげですっかり癒えている。傷跡がうっすらと残っているものの痛みはなく、まして、女学院中で噂されている「逆十字の魔女の傷」などありはしない。
 ありはしないのに、袖をめくればそこに魔女の証がありそうで、奇妙な不安に心が震える。それだけではない。和豪と柏田が救出にやって来る前――自分と蒼馬を、身を呈してかばってくれた少年がいたことを、誰もが話半分でしか聞いてくれないのも、時枝の心に小さからぬ影を落としていた。
 夜闇のなかで凶暴な野犬に襲われ、その恐怖でありもしない幻影を見たというのだろうか。不可解なのは、そのことまでが女学院中に広まり、時枝の幻視こそを魔女の証だと言い出す者が少なくないことだった。
(ううん、幻でも、幽霊でもいい。誰にも信じてもらえなくたっていいの。あの子が無事でいてくれたら)
 教師が読み上げるいにしえの物語を、ひとり耳だけで追う時枝の脳裏に、ふと、野犬に食い殺された泉水の凄惨な遺体が蘇った。青慧中学校の美術室、その床に、池のように広がっていた泉水の血。それはやがて、かつて逸見から見せられた、亡き父の遺体写真に重なっていった。

 

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